演奏解説

  • 【 初めに 】

  • 【 冬野 】

  • 【 春愁 】

  • 【 最後の雪に 】

  • 【 牧場 】

  • 【 かけす 】

この組曲は、関西学院グリークラブからの委嘱によって作曲され、一九七四年一月に大阪・フェスティバルホールで開かれた関西学院グリークラブ第四十七回リサイタルにおいて、北村協一氏の指揮によって初演された。
私は残念ながらこのリサイタルを聴き逃したのだが、非常な名演奏であったと聞き及んでいる。
多田武彦さん四十四歳のときに作曲された第三十番目の男声合唱組曲である。私たちが先の定演で歌った「わがふるき日のうた」より三年早く作られた作品だ。
多田さんはこの組曲を作ったときの経緯や気持を次のように言っておられる。少し長いが下に記す。

『昭和四十八年、十七年ぶりで郷里の大阪へ帰った。三年ほど作曲から遠ざかっていたが、久しぶりに関西学院グリークラブのために新曲を書くことになって、詩集を探しに出かけた。
恥ずかしいことながら、尾崎喜八先生の詩と出会ったのはこのときが初めてである。
彌生書房から出版されているこの詩集の巻頭に尾崎先生のポートレートがあって、その次の頁に原稿用紙に書かれた「かけす」が掲載されていた。
尾崎先生の詩に作曲しようと思ったのは、この「かけす」との出会いによると言ってもよい。
読む者の心に清新の感動を伝えてくれる先生の詩には、同時に「何気ないけれど、尾崎先生が用いるときらりと光る言葉」がある。
<とんで行くのがじつに秋だ>
<空気の波をおもたくわけて>
<深まる秋のあおくつめたい空の海に>
など。
歌曲や合唱曲の作曲に当たっては、詩の心に逆らわないように、寄り添うように、これをおこなうことが大切だが、要所要所にちりばめられた詩人特有の言葉の輝きも見落としてはならない。
尾崎先生の詩には、自然な姿で美しい日本語が配置されていたので、充実した心で作曲できたことを思い出す。』

多田さんはこれ以来、尾崎喜八の詩の世界に入り込み、八十余の組曲のうち、北原白秋に次いで多い次の八作品を尾崎喜八の詩によって作曲しておられる。
「尾崎喜八の詩から」     一九七四年 関西学院グリークラブ
「尾崎喜八の詩から・第二」  一九八六年 神奈川大学フロイデコール
「樅の樹の歌」        一九八九年 メンネルコール広友会
「秋の流域」         一九九一年 甲南大学グリークラブ
「尾崎喜八の詩から・第三」  一九九二年 城北学園グリークラブ
「歳月」           二〇一一年 神戸男声合唱団
「花咲ける孤独」       二〇一二年 紐育男声合唱団東京
「八ヶ岳憧憬」        二〇一四年 紐育男声合唱団東京(予定)

さて、男声合唱組曲「尾崎喜八の詩から」である。
まず、尾崎喜八のことを少し述べる。
喜八は、明治二十五(一八九二)年、東京市京橋区(今の中央区。聖路加病院の近く)の隅田川のほとりで廻船問屋の長男として生を受けた。
生来勉学や音楽を好んだが、その父親が商人に学歴は必要ない、とした
ため、やむなく京華商業学校へ進んだ。

小学校一年生のとき、担任の女教師に連れて行ってもらった教会で聞いた荘重なオルガンの音や讃美歌の合 唱に幼い魂を奪われ、小学校三、四年生のころ音楽の先生から音楽を愛する心をしっかりと植え付けられるなど、これらの体験が後年の音楽の造詣 の深さへと繫がっていった。

喜八最晩年の著書「音楽への愛と感謝」のあとがきの中で、「幼くして歌というものを教えられて以来、更に長じてロマ ン・ロランの書くものに親しんで以来、音楽は私から離れなかった。その美は私を喜ばせ、鼓舞し、慰め、また時に私を鞭撻しつつ精神を高揚させた。

私の詩や文章、つまり今日までの私の仕事は、すべて音楽(それに自然)から養われたものだといえる。」と語っている。

喜八はバッハ、ベート ーベン、ワーグナーなどが好きなようである。
そして、自然。喜八は山や川、雲や星、鳥や蝶、草木や花、などなど自 然万物のすべてに興味関心を持ち、究め、実に該博な知識を持っている。

つねに山や野を歩き、自然に親しんだ。「山の詩人」などと評される所以である。
前述の男声合唱組曲「樅の樹の歌」を初演した年の初夏、私は多田武彦さんとともに北鎌倉にある尾崎喜八詩人宅を訪れた。

あじさい寺で有名な明月院から少し坂を上がったところにあるお宅の二階の、喜八が生前使っていたという書斎に案内された。

書斎の窓からは鎌倉五山の一つである円覚寺が一望できた。

そこで実子(みつこ)夫人と長女榮子さんの応接を受け、喜八に関するいろいろの話を聞き、遺筆遺墨を見せていただいた。

ロマン・ロランから受け取ったという手紙も見たが、それは実に流麗な文字で書かれていて感激したのを思い出す。

これらについても必要な範囲で紹介して行きたいと思っている。


『冬野』
1.この詩が作られた背景
この詩は、昭和三十年二月に三笠書房から刊行された、尾崎喜八の詩業の頂点に位する詩集「花咲ける孤独」の巻頭を飾る作品である。

喜八は詩集のあとがきで、次のように述べている。
「昭和二十一年以降約八年間の作の中から、この七十三篇を選んで残すことにした。
配列は作品の生れた年代順にしたがった。すなはち終戦直後千葉県三里塚で書いた「冬野」とそれに続く幾篇とが最も古く現在の東京での作「初蝶」以下のものがいちばん新しい。
その間の四十数編は、おほむね長野県富士見在住時代に得たものである。」

これによってこの詩は、昭和二十一年(二十年の冬)に三里塚で作られたものであることが分かる。
なぜ、三里塚なのか。当時は千葉県印旛郡遠山村駒井野在の地区名で、東京から遠く離れた農村地帯であった。

ここに喜八の妻実子(ミツコ)の父・水野葉舟が大正十三(一九二四)年に東京から移住していた。

現在成田市となっているこの地は、三里塚地区がほとんどそのまますっぽりと成田国際空港になっている。
喜八が三里塚の田園に立っている理由は、喜八自身に語ってもらおう。
「巻頭の「冬野」と「告白」とは、終戦の年の暮れに千葉県の三里塚に近い田舎で書いた。
その古い開墾部落に妻の実父が長く定住していたので、私たちは其処をたよって東京都下の砂川村から行ったのだった。
松林と畑地の続く広大な下総丘陵。浅い大小の断層谷が帯のような稲田になり、丘陵面では麦、甘藷、落花生を作っていた。
その間に小さい集落や独立農家がぽつりぽつりと散在して、私たちになじみの武蔵野よりも民度が低く、生活も自然もいたって単調で辺鄙の観があった。
私たちは地平線のどの方向にも山の片鱗さえ見えない、ただ朝や日の暮れに無数の嘴太鴉の群飛する、
この土地の無感情に近い表情が却って気に入って、あわや此処に永住の決心をするところだった。
しかし寄寓者としての気づかいや、手伝いの労働や、戦中から戦後にかけての栄養失調のためか私に肺浸潤の症状が現れた。
それで一方ではその治療のため、また他方では今後の文筆生活に当然影響しないではいないさまざまな不利不便を考えて東京に帰ることにした。
「冬野」と「告白」とはこうした環境と心の空をよぎる明暗のうつろいの中で書かれた。」(詩文集6より)

喜八はこの後、東京・吉祥寺と杉並の二人の友人宅に寄寓したあと、

元伯爵渡辺昭氏の厚意で、長野県諏訪郡富士見村にあるその別荘「分水荘の一部を借り、高原の広大な自然美と土地の人々の愛情にひかされるままにここに足かけ七年を暮らすことになる。

2.「冬野」を読む
喜八は冬の三里塚の広大な畑地に立っている。
冬野とは広々とした一面の畑地の中に農家があり、防風林もある、全体としての冬の「野」をいい、荒涼たる冬の原野をいうのではない。
ときは夕暮れであろう。正確な間隔をもってきっちりと切られた畑地の畝にははや霜が降り、びゅーっと琵琶をかき鳴らすような風音が走る。
天空の高いところに今日の一番星がひとつ、カーンと最も高い鍵を打つようだ。
そのような様子を喜八は竪琴に見立てて、「大きな竪琴のような夕暮れ」と表現したのだろう。
野はあくまで広く、無表情に整然と枯れ広がっており、春がくるのは大分先のことではあるが、春の予感はすでに天地の間にゆらめいている。
喜八は暮れなずむ畑地の土を踏んで、自分の手で麦の種を蒔いている(現実に種まきしているというよりは、精神的なものの表現であろう)。
その種は深く土に沈み、暗い地底の夜々を変貌させて(暗い世相を明るいものに変えて)、黎明をもたらしてくれる。
喜八の周りに蒼い闇が立ち込み始めた夕暮れの沈黙の中で、自分の心が敬虔な讃歌を奏でている。いまはまだ冬だが、自分にはもう聞こえてくる見えてくる。
あの六月の麦の取り入れの祭りの賑わいの歌が、風に吹かれてうねるように波打つ翡翠色の麦畑の穂波が、…。


『最後の雪に』
この詩は、大正十三(一九二四)年に出版された尾崎喜八の第二詩集「高層雲の下」に収められている。

喜八は大正四年二十三歳のとき、家業の回漕問屋を継ぎ文学志望を断念するよう迫る父親に廃嫡を求め、父と訣別して、銀行勤務などを続けながら文学の道に邁進していた。
大正九年夏、当時の日本の国策会社であった朝鮮銀行の京城(いまのソウル)本店勤務を辞して東京に帰り、詩人であり彫刻家でもある高村光太郎との親交を深め、文学上の影響を受け、また光太郎の推挙によって喜八は作曲家ベルリオーズの「自伝と書翰」という翻訳書を出版した。
また、喜八は光太郎に伴われて東京府荏原郡平塚村字下蛇窪(現在の東京都品川区戸越・東急大井町線戸越公園駅付近)の静かな田舎に住む明治・大正期の詩人・小説家水野葉舟を訪ねる。
そこに後年、喜八の妻となる長女実子(ミツコ)がいた。実子は当時十五歳、その時すでに母を亡くしていたので、女学校に通いながら父と病身の叔母と二人の弟妹の面倒をみ、畑で、鶏舎で、台
所で、シンデレラのように立ち働く娘であった。
その様子を、喜八はのちにその第一詩集である「空と樹木」に収められ、<水野実子へ>と献辞した「カテージ・メイド」という詩を実子に贈った。
やがて喜八と実子は相思の間柄となり、固い信頼関係に結ばれた二人は、大正十三年三月二十日、結婚式を挙げた。これより前、大正十二年九月に起こった関東大震災を機に喜八と父との和解が成立していた。
実子との結婚のお祝いとして父から贈られた新居は、東京府豊多摩郡高井戸村大字上高井戸の畑地の中にあった。

玉川上水が窓の向こうに見え、井の頭用水が背後にあった。遠く富士や丹沢の山々を見ることが出来る洋風の二間の家で、二反歩の畑地がついていた。
ここは、現在は東京都杉並区上高井戸。東西に中央自動車道が、南北に環状八号線が走るこの辺りからは、喜八が新居を持った頃の田園風景などとても想像できない。

・  田舎のわが家の窓硝子の前で
・  冬の終わりの花びらの雪
・  高雅な、憂鬱な老嬢たちが
・  朝から白いワルツを踊っている

喜八は、冬の終わり頃のある日、上高井戸の家の窓に近い机に向かって詩作をしている。

窓硝子の外には雪が舞っている。この時期の雪は、厳寒期の雪のように軽やかではなく、湿気を含んだ牡丹雪だ。
牡丹の花びらのような雪が空から舞い落ちてくる。その様(サマ)は若い踊り子のように軽やかではないが、高雅で色香もふくよかに匂うけれども老いを感じ始めた中年婦人―老嬢―が踊るダンスのようだ。
朝から白い雪は野に藪に、畠に路に、そして私の窓の前に降り続いているが、雪よ、お前たちの踊る典雅なウインナ・ワルツのその高貴さを私が書く詩に加えてほしい。
自分はいま、その窓の前の机に向かって、早春の夕がた、透明な運河の水や船や労働を織りこんだ活気に満ちた詩を書いているのだ。
自分の部屋の窓の前での、高雅な憂鬱な老嬢たちの舞踏の季節も終わって、やがて遠い地平線の向こうから春がそよ風と雲雀とを使者として送ってくる。
そのとき自分はこの窓の前で典雅なウインナ・ワルツを踊っている老嬢たちの最後の舞踏の記念として、私の古い詩稿に愛を感じることだろう。
それから昭和三年までの四年間、文学の仕事と畠仕事に専念する喜八の上高井戸での生活が続く。
このころはまだ喜八の原稿料収入だけでは生活が苦しいため、近隣の農家に農業の指導を受けつつ農作業に励む喜八と実子であった。

当時の生活について、雑誌に発表された喜八の文章がある。
「草取り、毎日の旱(ヒデリ)、毎日の来客、次から次へ書きたい原稿、書かなければならない原稿。生活は多忙で、生活は苦しい。
読書も散歩も思うようには出来ない七月を、雑草ばかりは私の畑で思うがままに繁ってしまった。
『草をとらなくっては』これが私達夫婦の、口に出さない時でも気に病んでいる仕事であった。」

この上高井戸時代に、詩集「高層雲の下」(大正十三年)、詩集「曠野の火」(昭和二年)を刊行。

(補遺)この詩の中に「早春の夕がた、透明な運河の 水や船や労働を織りこんだ生気の歌」というフレーズがある。
そのような詩はないかと、こころみに「最後の雪に」と同じ詩集を繰ってみると「河口の船着」という題名の長い詩があった。最初の部分だけ次に引用する。

・  河口の船着

・  河口の船着(フナツキ)よ!
・  入海にむかって開いた花よ!

・  ある夕がた、
・  心ゆくばかり透明なライラック色の空が
・  満潮の運河の水に
・  ふかく、爽やかにうつっていた。
・  舳(ミヨシ)や艫(トモ)に青や赤のペンキを塗って、
・  積荷の重さに
・  舟べり近くまでしずんだ荷船
・  今、沖の漁から帰って来たばかりで
・  まだ濡れている網を
・  虹のように、面紗のように掛けている漁船
・  さざなみは岸の石垣にぴちぴち鳴り
・  すかんぽやきんぽうげは鮮やかな緑を萌やし、
・  みぎわに川蝦のむれが泳いでいる
(以下略)


『春愁』

1.この詩の出典
喜八は信州・富士見における足かけ七年間の生活の中で心身の健康を回復し、充実させ、喜八の詩業の中心をなす仕事を完成させて、昭和二十七年十一月、東京に戻る。多摩川の流れを見おろし、西南西に富士山を望む東京都世田谷区上野毛の丘陵台地に家を建てた。
昭和三十年に富士見時代の作品を中心とした詩集「花咲ける孤独」、三十三年に詩集「歳月」を刊行、その他リルケやヘッセの訳詩集、散文選集「山の詩帖」など多くの作品を出版し、昭和三十四年五月には「尾崎喜八詩文集3」も出版された。
この詩文集3には「歳月」以後の詩作二十一篇を「その後の詩帖から」として加えているが、「春愁」はその中に収められた一篇である。

2.この詩の成り立ち
この詩の副題に ―ゆくりなく八木重吉の詩碑の立つ田舎を通って―と記されている。
「ゆくりなく」は「思いがけず」の意であるから、喜八はそれとは知らずたまたま重吉の詩碑の前を通りかかったのだが、八木重吉の名前に出会い詩碑を見て深い感慨を覚えた喜八は、後に一篇の詩を書き残した。
それがこの「春愁」である。
この事情は、昭和三十三年三月から昭和五十八年二月まで創文社から発行されていた月刊誌「アルプ」の第百九十六号・特集 尾崎喜八(昭和四十九年六月)に掲載された三宅修氏の「七国峠」に詳しい。
三宅氏は尾崎喜八詩文集の巻頭に掲載する喜八のポートレートの撮影を担当していた写真家である。
「七国峠」はかなり長文なので、以下、これを引用、抄出する形で適当に飛ばしながら、喜八が「春愁」の詩想を得た場面を追っていく。

『私はその日を思い出していた。昭和三十四年三月三日、「アルプ」創刊から一年後の明るくうららかな、浅い春の一日である。
その頃、ちょうど尾崎さんの詩文集に入れる巻頭の写真を任されていた私は、淡烟草舎と名づけられていた上野毛のお宅の書斎や庭、すぐ近くを流れる多摩川の畔りなどで何点かのポートレイトを撮っていた。…
その第四回配本分が第四巻の「山の絵本」であった。当然のことながら、山、あるいはその雰囲気のある場所に出かけて撮りたいと思ったけれど、それぞれが仕事に追われているとあれば、何日も泊まりがけで遊びに出るようなわけにもいかない。
それに尾崎さんのお年が六十七歳であってみれば、いよいよ遠出は差し控えたほうがいいとも思う。
しかし折角の機会である。単なる口絵撮影だけで終わらせるには勿体なさすぎるので、むしろ気軽なハイキングを主に、写真はその途中でちょっと時間をかけて撮るだけにしよう。
それに、先生と私では年齢の落差もありすぎるし、繊細な詩人と雑な写真家だけでは心もとない。
そこで外語大いらい「アルプ」編集に至るまでお世話になりっぱなしの串田孫一さんにお願いして同行していただくことにした。
行き先は、七国峠付近。山というにはいささか標高に欠け、北に八王子、南に相模の平野が控えている多摩丘陵の西南部。
昭和三十四年三月三日・快晴。
そのハイキングの下車駅が横浜線相原であった。
相原で降りた私たちは、谷間の線路沿いの道を北に向かった。
田園と言うよりは、山村の風情があった。
明るく広々した西欧風の眺めではないが、春浅い雑木の山の静けさが、不思議なほど素直に私の心を打つのであった。
尾崎さんはニッカ―スタイルで上着とチョッキもお揃いの、いつもながらきちんとした服装で、足もとはは軽快なキャラバンシューズ、背には小型のリュックザックを背負い、ベレーをほどよく傾けてかぶっている。
時にはスプリング式のツアイスイコンのシャッターを切り、鳥の声に耳を傾けては双眼鏡で鳥影を追っていた。
(この先、山歩きの場面はすべて省略して、三人が帰途につく場面に飛ぶ)

長かった春の日もようやく夕方になったころ、今まで閉ざされていた視界が突然はじけるように明るく開けたのである。
そこは山の奥深くまで開拓した麦畑の斜面であった。
短く柔らかい緑が夕日を受けて輝くさざ波のように数え切れないうねりになって、何百条となく夕日に輝いていた。 …。
美しい山村のたたずまいに私たちは立ち去りがたい思いで、いつまでもこの風景の中に融けこんでいたかった。
あとは夕映えの空を見上げながら北に向かって歩くばかりである。そう思って滝尻を抜け、次の部落は大戸であった。
そこで私たちは思いがけないものに出会った。
それは、とある藁葺きのどっしりした農家の生け垣の前であった。そこには夕陽のほてりでまだ温もりの残っているほぼ円形の巨大な水成岩が台石の上に据えられていた。
串田さんが眼ざとく見つけ、碑文を読むと尾崎さんを差し招いた。
そこには一編の詩がきざまれていた。

・  このあかるさのなかへ
・  ひとつの素朴な琴をおけば
・  秋の美しさに耐えかねて
・  琴はしずかに
・  鳴りいだすだろう

八木重吉の詩碑であった。そして背後の藁葺き屋根の農家は、彼の生家であった。
これは思いがけない出会いであった。
残念ながら秋ならぬ春の、明るさが消えてゆこうとする時刻であったが、梅の香が風にのって、あたり一面を華やいだ気分にさせていたことが、なつかしく思い出せるのである。
高尾までほぼ一里、私たちは思いがけない邂逅に何となく心のたかぶりをおぼえながら、暮れなずむ道を歩いていった。
そのままどこまでも歩きつづけたくなるような気持を見透かすように、宵の明星が輝きだした。』(以下、省略)

これが「ゆくりなく八木重吉の詩碑の立つ田舎を通って」の場面である。

3.二人の詩人―喜八と重吉
八木重吉は明治三十一(一八九八)年、生まれ。東京高師英語科卒業。
内村鑑三の著作に感化されて敬虔なキリスト教信者となった。

大正十年、御影師範学校(現神戸大学発達科学部)教諭となる。
翌年、島田とみと結婚。二人の子をもうける。
大正十四年、千葉県立東葛飾中学校に英語科教諭として転任。大正十五年、結核の診断を受け、茅ヶ崎の療養所に入院。
昭和二年三月死去。二十九歳であった。
その詩は、重吉の穏和な人格を反映して、そのほとんどが短く、ひっそりとした言葉で綴られている。
アルマの団員諸兄は多田武彦さん作曲の「雨」をご存じと思う。
・  雨のおとがきこえる
・  雨がふっていたのだ
・  あのおとのようにそっと世のためにはたらいていよう
・  雨があがるようにしずかにしんでゆこう
この詩は八木重吉の作である。
重吉に対して尾崎喜八は明治二十五年生まれ。

その生活や文学上の業績は各所で述べているので、ここでは省略するが、昭和四十九年二月、八十二歳で亡くなった。
喜八は重吉より五歳年上で、五十年以上長く生きた。
二人の間には交友関係はなかったが、草野心平や高村光太郎を通じての繋がりがあり、喜八は当然詩人としての重吉を知っていた。
重吉の死後に出版された詩集「貧しき信徒」を読んだ喜八は、「故人の心そのもののような此等の詩に、涙と嘆賞とを同時にそそぎます。
私は遂に八木君を此世で知らずにしまった事を今切に残念に思います。
私は八木君を生前に知っていた人々に対して、一つの羨望さえ持ちます。」と述べた。
「春愁」の詩がつくられたのは、重吉の死後三十年が経ってからであるが、重吉の才能を惜しむ気持がこめられている。
この詩には老年に入った喜八の心境が述べられているが、その背景には大戸の里で思いがけずその詩碑に出会った八木重吉の短い生涯を思う心がある。

「春愁」の詩に入っていく前に、ここで少し脇道にそれる。
八木重吉の妻、とみ のことである。
とみは夫重吉を亡くしたときはまだ二十二歳の若さであった。
さらに重吉との子二人も短命で、長女桃子は昭和十二年に十五歳で、長男陽二は昭和十五年に十六歳で、それぞれ父と同じ病で亡くなってしまった。
ときにとみ三十五歳であった。
一人取り残されたとみは、重吉がかつて療養生活を送った茅ヶ崎の結核療養所・南湖院に事務員として勤めた。
やがて太平洋戦争の半ばごろ、四人の子どもを残して妻に先立たれ、自らも宿痾の結核に悩む歌人吉野秀雄に請われて、鎌倉にある吉野の家に住み込み、四人の子を養育することになった。
その後昭和二十二年に四十三歳となっていたとみは、四十六歳の吉野秀雄と再婚する。
昭和五十一年、とみは「琴はしずかに 八木重吉の妻として」を著し、彌生書房から刊行された。
書名の「琴はしずかに」は前述の詩碑の詩の題名からとったものである。
またとみは、昭和五十三年に「わが胸の底ひに吉野秀雄の妻として」も刊行した。
稀有の才能を持った二人の文学者に愛され、また、彼らを支えたとみは、非常に聡明な女性であったという。
喜八が撮影ハイキングの折、大戸部落で邂逅した重吉の詩碑に刻まれた詩を選んだのは、妻のとみであった。

本題の「春愁」に戻る。

4.「春愁」を読む
七国峠へのハイキングから世田谷・上野毛の家に帰った喜八は、重吉の詩碑にゆくりなくも巡り会った感動がさめやらぬ間に詩作にとりかかり、「春愁」が生まれた。まず先に普段あまり聞き慣れない語句を見ておこう。
詩の三行目「今日しも」、最終行の「これをしも」の「しも」は文語的な強調語法、四行目の「岡のなぞえに」の「なぞえ」は斜面である。
この詩は三聯から成っており、第一聯と第三聯は六十七歳になってこの詩を書いている喜八の現在の状況や心境の説明であり、この部分をテノールソロが受け持っている。
これに対して真ん中の第二聯は喜八の沈黙の自省であり、ここは合唱が受け持つ。
多田さんはこの曲をこのような形で歌わせている。

六十七歳になった自分は幸いにもやっと静かに賢く老いることができた。
満ち足りてくつろいだ、願わしい境地だ。
だが、自分にもあった情熱あふれる青春時代、父親への反目、離反、結婚まで決意した年上の恋人との死別、文学によって生きていくための必死の奮闘…、
いまの幸せに至るまでには得意の絶頂もあるにはあったが、多くのつまずきや悔いがあった。
いまやっと得られた賢さが間に合わなかったことが悔やまれる。
いまさらそのようなことが感じられるのは「春」という季節のせいだろうか。

それにしても、あのとき自分の目の前の詩碑に刻まれていた重吉の詩、あんなに若くして死んでいった八木重吉の詩には、自分がやっといまたどり着いた「賢さ」や「澄み晴れた成熟」がみられるではないか。
重吉の詩境に三十年遅れていまやっと自分はたどり着いた。
本当に重吉の早世が惜しまれてならない。
あの日、大戸の村、重吉の生家のあたりで見た風景―春が始まったこの季節、木々の芽だちと若草の萌え出た岡の斜面にあかあかと夕陽がたゆたい、やがて薄暗くなりかけたあたりにはどこからか梅の香が漂ってきた。
谷間に宵の明星がしばし明るく輝いていた。
こうして遠くたどってきた自分の人生を顧みる気持になったのも、これもまた一つの「春愁」というべきものであろうか。

喜八と重吉。一方は八十余年の人生を送ったのに対して、他方はわずか二十九年の生涯。
その詩形は、喜八の(特に若い頃の)長い詩が多いのに対して、重吉のそれは短いものが多い。
あまり共通点はないように見えるが、人生に対する真摯な生き方や人間への博愛、無私の心などにおいて、
喜八は重吉と共鳴し合うものを感じていたのではないだろうか。


『天上沢』

この詩は、東京・神田の山の書籍出版社「朋文堂」から昭和八(一九三三)年に初版、昭和十三年に増補版が出版された尾崎喜八の第四詩集「旅と滞在」に収められている。
喜八四十歳ごろの作品である。喜八は、「詩集の題名について言えば、この世での生活は滞在であると同時に旅でもあるという私の現在の考えをそのまま表現している」と言っている。
三十八篇の詩が収められているが、それらの作品の素材は山梨県、長野県、群馬県において得られたものである。
アルマが以前に歌った多田さんの曲、「金峯山の思い出」(男声合唱組曲・樅の樹の歌)の詩もこの詩集にある。
喜八は世上よく「山の詩人」と言われる。旅をよくし、多くの山を訪れた。山に関する詩や文章も多い。
戦後の一時期、日本山岳会信濃(長野)支部長を務めたこともある。
しかし喜八は、「前人未踏の山岳を踏破する」種類の山岳家、アルピニストではなかった。
彼が好んで歩き、詩文に描いた自然は、人間性の対極にある拒否的な自然ではなく,人間の魂と自然の生命とが、最も美しく融合し合うような自然である。
喜八の自然に対する態度は、偉大な辞書である「自然」の中に精神の糧を見出し、人間の叡智を学び取るものであった。
この詩も、そのような気持で読んでみたい。
日常的にあまり使わない二、三の語句の意味だけを見ておけば、読んで難しいところはない。悠久の大自然の中にあっての、喜八の人間観照。

・    天上沢

・  みすず刈る信濃の国のおおいなる夏
・  山々のたたずまい、谷々の姿もとに変らず
・  安曇野に雲立ちたぎり、槍穂高日は照り曇り
・  砂に這う這松、岩にさえずる岩雲雀
・  さてはおりおりの言葉すくなき登山者など、
・  ものなべて昔におなじ空のもと
・  燕(ツバクロ)より西岳へのこごしきほとり
・  案内の若者立たせ、老人ひとり
・  追憶がまぶた濡らした水にうかんで
・  天上の千筋の雪の彷彿たるを見つめていた

「みすず刈る」:しなの(信濃)にかかる枕詞
「雲立ちたぎり」: 雲がわきかえり、 雲がさかまき
「こごしきほとり」: ごつごつして険しいところ
「彷彿たる」: ぼんやり見えるさま、 はっきりと識別できないさま


『牧場』

1.この詩の出典
この詩は、昭和十七年九月に、東京の青木書房から刊行された詩集「高原詩抄」に収められている。
喜八によれば、「戦争中の事でもあり、装幀にも用紙にも見るべきものがなかった。
戦時ではあるがこの種のものをという書店の希望をいれて、山や高原の旅から得た旧作三十五篇に新しく二十数編を加えて編んだ」ということである。
多田武彦さんはこの詩集からも詩を選んで作曲されており、アルマでも過去に「秋の流域」(組曲「秋の流域」)、「美ヶ原熔岩台地」(組曲「秋の流域」)を歌っている。
喜八は、昭和六年に東京・荻窪に居を移し、詩作のかたわら、自然観察、昆虫や植物の標本作り、気象観測、雲の写真撮影などに没頭し、山や高原への旅を多くしていた時代である。

2.「牧場」について
「ぼくじょう」ではなく「まきば」と読む。
この牧場がどこであるのか、私は知らないが、信州か甲州のどこかであろう。どこであってもいいと思う。
晩夏の午後から夕方にかけての叙景である。
戦時中でも、まだ日本の敗色が濃くなっていない時期の作であろう、まだのんびりしたおおらかな気分が感じられる。
読んで文字通りの意味で、晦渋な言葉も、難解な哲学的な内容もなく、解説を要しない。
そこで、ちょうど一九年半前の平成四年九月に、この詩をめぐって喜八詩人の長女榮子さんと交わした会話を思い出したので、この文に書く意味はあまりないが、それを書き記して、今回の解説の責を果たしたことにしてほしい。

記憶ももう朧気であるが、組曲「尾崎喜八の詩から」のCDを聴いていたときかもしれない。
尾崎さんは「増田さん、多田先生の『牧場』の曲はいい曲だけれども、わたしには橋本国彦さんがこの詩に作曲された曲の方がうんと親しいのです。
多田先生の合唱曲はどれも大好きなんですけど、この『牧場』だけは親しみがちがうんですよ。
橋本国彦さんの曲は父(喜八)が大変気に入っていて、父と母とわたしと三人で、よく歌いました。
橋本さんのこの曲は、昭和六年に刊行された『新日本小学唱歌』第十輯に、尋常小学五年生の歌としてとりあげられました。
その本がなくなってしまって、淋しく思っていたんですが、最近、これを見つけてくださった方がいて、手に入りました。コピーして、後日お送りします」と、ざっとこんな話しであった。
後日本当にコピーが送られてきて、今も保存している。ピアノ伴奏付きの、平明で明るい歌で、分かりやすいこの詩とマッチした曲ではある。また機会があればご覧いただきたい。

多田さんのこの曲は、六曲の組曲の五番目に置かれているが、間奏曲的な色合いの曲であると思う。楽しんで歌いたい。


『かけす』

1.多田武彦さんと喜八詩との出会い
これについて多田さんが一九八九年にお書きになった文を左に引用する。

昭和四十八年、十七年ぶりに郷里の大阪に帰った。
三年ほど作曲から遠ざかっていたが、久しぶりに関西学院グリークラブのために新曲を書くことになって、詩集を探しに出かけた。
恥ずかしいことながら、尾崎喜八先生の詩と出会ったのは、このときがはじめてである。
彌生書房から出版されているこの詩集の巻頭に、尾崎先生のポートレイトがあって、その次のページに、原稿用紙に書かれた「かけす」が掲載されていた。
尾崎先生の詩に作曲しようと思ったのは、この「かけす」との出会いによると言ってもよい。
読む者の心に、清新な感動を伝えてくれる先生の詩には、同時に、「何気ないけれど、尾崎先生が用いると、きらりと光る言葉」がある。
《とんで行くのが》
《おもたくわけて》
《深まる秋の》
など。
歌曲や合唱曲の作曲にあたっては、詩の心に逆らわないように、寄り添うように、これをおこなうことが大切だが、要所要所にちりばめられた詩人特有の言葉の輝きも見落としてはならない。
尾崎先生の詩には、自然な姿で、美しい日本語が配置されていたので、充実した心で作曲できたことを想い出す。

そして多田さんが、いつの日だったかかなり前のことだが、《とんで行くのがじつに秋だ》のところで、歌舞伎役者が舞台の大向こうで見得を切っている姿を連想した、と私に語っておられたのを思い出す。

2.「かけす」の詩に対する喜八の自註
この詩は前述の通り詩集「花咲ける孤独」に収められているが、後年、喜八は富士見に寓居していた当時に同高原でつくった詩ばかり七十篇を選んで「自註 富士見高原詩集」を出版した。
自註の意味について、喜八は「作者自身が自分の詩に注釈を施し、或いはそれの出来たいわれを述べ、又はそれに付随する心境めいたものを告白して、読者の鑑賞や理解への一助とする試みである。」としている。
「かけす」はこの「自註 富士見高原詩集」にも収められ、次のような自註が施されている。下にそれを掲げる。
ここで喜八の自註を読む前に、もう一度「かけす」の詩を読んでいただきたいと思う。

秋もようやく深くなると、日に幾たびか、空の高みをカケスの群れが南のほうへ飛んで行く。
南の何処へ行くのかは知らないが、とにかくこの高原を後にして、今まで一緒に暮らして来た私たちを後にして、われわれの知らない土地へ行ってしまう。
私にはそれが寂しかった。
ふだんよりも遥かに高いあんな空を飛んで行くのだから胸の痛む思いがする。
誰がどういう訳でカケスと呼んだか語源の程は知らないが、とにもかくにもその名で呼ばれて、自分でもその気になっていたかも知れない者が、どうにも出来ない本能か運命のようなものに導かれて、おそらくは半ば心を残しながら、遠く去って行くのだと思うと、
私には彼らが単なる鳥としては見られない。
寧ろ何か霊的なものに見えてくる。
或る友人がこの詩を特に好きだと言ったが、出来る事ならばこの高原で、秋空遠く消えてゆく彼らの姿を一緒に見たいと思っている。

3.富士見高原とカケス
富士見高原は八ヶ岳連峰東南の裾野に伸びやかに広がり、海抜一〇〇〇米、冷涼な気候と豊かな自然に恵まれた山国で、東南方向にはるかに富士山を望みつつ、甲斐駒ヶ岳、釜無山、そして多くの種類の蝶が生息し、スズランが群生することで有名な入笠山などを遠からずひかえた景勝の地である。
空気や水が澄んで美しい富士見の秋は、空が抜けるように蒼く、高い。秋が深まったある日、数羽のカケスがほとんど点のようにしか見えない上空を釜無山脈の方向へ飛んでいく光景を目撃したことがある。
喜八が前記の「自註」で述べているような深い省察はとても私には出来ないことであるが、この詩を知っていたので、単に高原の秋の風景を見たという以上に身が引き締まるような感慨を覚えたのも事実である。
カケスは、日本では九州以北の平地、山地の森林に生息し、繁殖する留鳥で、北部に生息するものは冬季に南に移動する、ということである(ウィキペディアの記事から)。
体長は三〇センチぐらいで、だいたい鳩と同じ程度の大きさである。色彩や姿は今年五月二十四日付で林茂紀さんが「イワヒバリとカケス資料」としてアルマ・メーリングリストを通じて団員に送られた写真をご覧いただきたい。
ある年の夏の終わり、富士見高原中学校校地内の小高い丘の上にあった(今はその近くの別の場所に移設されている)尾崎喜八詩碑の前で開かれた「喜八碑前の集い」において、私は東京のある男声合唱団の友人達とこの「かけす」の曲を合唱した。
「碑前の集い」が終わってから中学校に隣接した公民館で行われた懇親会の席上へ、富士見町教育委員会の方がカケスの実物標本を持って、「かけす」を合唱した私達の所へやって来られた。
その方は片手で標本を示しながら、次のように説明された。
「カケスは夏の暑い頃まではときに私達の頭をかすめるぐらい低いところを飛んでいます。
けれども秋の気配が立ちこめるにつれて、カケスの飛ぶ高さが少しずつだんだん高くなるのです。
尾崎先生がかけすの詩を詠まれた秋の深いころになると、カケスはもう点にしか見えないぐらい高いところを飛び、三羽、五羽と連れだって南の方向へ去っていきます。」

秋の富士見の空はあくまで清澄で、蒼く、高い。その空の高みを、二羽三羽、五羽六羽とだんだんに飛び立っていく。
多田武彦さんが「やまぐにのそらの あんなたかいところを」の「たかい」の部分をF音(フェルマータ)で表現されているが、ここのところは富士見の空のように透き通るような、突き抜けるような、澄み渡るような高い響きの声で歌いたいものである。

( 完)

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