演奏解説

【 はじめに 】

【 石 家 荘 に て 】

【 天 】

【 金  魚 】

【 雨 】

【 さくら散る 】

———————————————————————————————————————

はじめに】

念願が叶って、やっとアルマでこの組曲が歌えることになった。

もう25年ほど前のことになるが、私はこの組曲を歌って二度ばかりステージに立ったことがある。

曲順に演奏が進んで、終曲の「さくら散る」では楽譜65頁の4段目3小節から poco a poco dim. して、ついに66頁5段目あたりまでくるとほとんどささやくような声で「まいおちるまいおちるまいおちる まいおちる まいおちる」と、深閑とした空間にさくらの花びらが音もなく舞い落ちる様を描いて曲が終わると会場の誰もが感じた瞬間、 f で「まいおちる」とハ短調の主和音が鳴り響く。

ホールの残響がおさまって、一瞬空間にぽっかりと穴があき、1秒後われに返った聴衆は割れんばかりの拍手を返してくれる。

こんな演劇的な効果がこの組曲にはしつらえられている。

歌舞伎、映画など動態芸術に造詣の深い多田武彦さんならではの演出ではないか。

この組曲は、多田さんが初めて組曲「柳河風俗詩」を世に問うてから7年後の1961(昭和36)年に作曲された、氏の第13番目の男声合唱組曲である。

慶応義塾ワグネルソサエティー男声合唱団が、就任後間もない畑中良輔先生の指揮で初演した。

多田さんの初期の頃の充実した作品群の中でも屈指の名曲である。

日頃多田さんからいろいろとお話を聞くにつけ、作曲当時30歳であった多田さんが、その若さでどうしてあんなに詩人の心の内奥を捉え、人生の深みを洞察することができたのだろう、その結果、何故あんなにいい詩ばかりを選ぶことができたのだろう、と思い続けていた。

それで、昨年、組曲「尾崎喜八の詩から」を歌ったとき、多田さんにそのことを訊ねてみた。

多田さんは「小さい頃から歌舞伎、浄瑠璃や映画など動態芸術に親しんできたので、それが自然に身についているのでしょう…。」と答えられたが、はたしてそれだけのことだろうか。

私は、アルマでもこの曲が取り上げられることを願い、いつの頃からか指揮者にも薦めてきた。

この度この組曲が当年度のレパートリーに入ったので、大変嬉しく思っている。

取り組み甲斐のあるしっかりした曲なので、是非ともいい演奏をしたい。

余談になるが、私はもう1曲、ぜひアルマでとりあげてほしい多田さんの組曲がある。

それは、男声合唱組曲「月夜孟宗の図」(詩・北原白秋)で、1957(昭和32)年の作品、「柳河風俗詩」「富士山」「雪と花火」に次ぐ第4作目の組曲である。わがアルマが第5回定期演奏会で初演(指揮は坪内栄夫さん)した当団の委嘱作品だ。

この曲の楽譜は1959(昭和34)年、音楽之友社・新編合唱シリーズ1多田武彦合唱曲集に収められて出版されたが、ほどなくして廃版になり、その後出版されなかったので、その存在を知る人が少なく、余り演奏されることがない。

2年後に創立70周年を迎えるアルマとして、やや歴史回顧的な意味も含む私の個人的な希望であるが、今までに歌ってきた多田作品とはまたひと味違う枯淡の情趣を味わうことができると思う。

詩人草野心平は、1903(明治36)年5月福島県石城郡上小川村(現在いわき市)に生まれた。

心平の履歴や詩業などについてはおいおい述べることになると思うので、ここでは詳述しない。

詩壇のどの系譜にも属さない独立峰と言われているが、昭和10年創刊の詩誌「歴程」の同人となり、その中心人物として活動した。

心平の詩集には「第百階級」「母岩」「蛙」「絶景」「富士山」「大白道」「日本砂漠」「牡丹圏」「天」「マンモスの牙」「凹凸」「乾坤」「植物も動物」等々がある。1988(昭和63)年逝去。

この組曲は心平と多田さんの力業(ちからわざ)ががっぷり四つに取り組んでいる作品なので、私の力量では解説などなかなか書けないが、それだけにまた取り組み意欲も湧くので、試みてみたい。


【石 家 荘 に て】

男声合唱組曲「草野心平の詩から」の第1曲目「石家荘にて」。

石家荘―せっかそう―シーチアチョワン。

石家荘は中国・北京の南南西約280キロに位置する河北省の省都で、同省南部の冀中(きちゅう―チーチョン)平原にある。

20世紀初めごろは人口1千人に満たない寒村であったが、1902年に京漢線(北京―石家荘―武漢)、1907年に石太線(石家荘―太原)の建設が始まって急速に発展した。

現在は京広線(北京―広州。武漢から伸延)と石徳線(石家荘―徳州)、石太線(石家荘―太原)とが石家荘市で十文字に交差しており、道路も諸方に通じている、華北における交通の要衝である。

心平は1938(昭和13)年に帝都日日新聞社社長野依秀市氏の秘書兼案内役として満州ハルビンから上海まで旅行し、その途中の同年3月、石家荘に入った。ときに心平35歳。

昭和13年といえば、1月に対中国和平交渉が打ち切られ、日中全面戦争に突入、3月には南京に日本の傀儡政権が誕生、10月には日本軍が武漢三鎭を占領、また、国内では4月に国家総動員法が公布されるなど、戦時色が色濃くなった時期である。

これより先、心平は父との確執もあって慶応義塾普通部3年で中途退学し、英語、北京語を学んだのち、1922(大正10)年に広州に渡り、嶺南大学(現・中山大学)に入学した。

その翌年ごろから郷里から持ってきた亡兄民平のノートに刺激されて詩作を始める。

1925(大正14)年、排日運動が勃発したため帰国し、結婚、上毛新聞社への入退社、焼鳥屋「いわき」の開廃業と曲折したが、詩は書き続けた。

1940(昭和15)年8月、嶺南大学の同窓生・林柏生の招請により中華民国中央政府(南京)の宣伝部顧問として南京に移住し、以後第二次世界大戦終戦まで5年間滞在した。

南京へ移住直後の9月、「石家荘にて」の詩が収められている詩集「絶景」を八雲書林から刊行している。

帝都日日新聞社社長の案内旅行で石家荘に入った心平は、そのときのことを随筆「石家荘界隈」に書いた。

『自分が石家荘へ行ったのは今年の3月26日で、京漢線戦線では順徳を中心に会戦が行われていた頃で、そこには軍司令部があった。

石家荘は支那の町としては珍しく城壁もなく、従って歴史的にいわれのある著名の町でもないが、石太線の起点であり今後は経済的にも枢要な町になるので是非行ってみたいと思ったのである。

朝7時に北京を発って夜7時半に石家荘に着いたがその間ずっと茫漠とした平野の中を汽車は走っていた。自分は相変わらず三等車に乗った。

(中 略)

どうせ一度は地獄とやらに

墜ちたこの身じゃないかいな

自分の前の席には北京から乗った茶屋女とも女給とも思える人絹のぺなを着た女が二人乗っていたが、そんな唄を歌っている。

歌詞は如何にも荒んでいるが歌っている本人たちは案外明朗である。

見知らない土地へ行くことの好奇心がそうさせているに違いない。』

軍隊が移動すれば、それにつれて商人や女たちが動く。

心平の記述をもう少し見てみよう。

『前線へ行く女たちは新しく出来る旅館の女中とか、カフェーや小料理屋に働くといったものが多く、なかには無蓋貨車に乗って太原あたりまで出掛けるおかみなども相当ある。

それらは新規に飲食店などを始めるのだが、すでにその頃でも女があふれているかたちで「太原はもう一杯です」などといって帰って来る女などもいた。

こうした現象は石家荘ばかりではない。………。汽車は所謂「中原」を南下していった。

黄土が涯しなく続いている。』

・  茫茫の平野くだりて

・  サガレンの

・  潮香かぎし女

・  月蛾の街にはひり来れり

「茫茫」=広大な、果てしないさま。

「サガレン」=サハリン、樺太の古称。

「月蛾」=遊女。古い漢詩には、月に住む仙女のこととして詠ったものがあるが、ここでは中国の街で身を売る女の詩的表現。

赤土黄土が果てなく続く中原を下って、樺太辺りから潮の香を嗅いで

流れてきた女が、ここ月蛾の街にはいってきた。

・  白き夜を

・  月蛾歌はず

・  耳環のみふるへたり

前述の心平の随筆「石家荘界隈」から再び抜粋。

『それから支那の茶館にも行った。午前2時頃ホテルで睡ろうとしていると大きな音がした。

砲撃かなと思ったがそうではなく春雷であった。雨は降らない。

外へ出てみると青竜刀のような月がかかっている。

雷はどこか遥か南方でなっているらしく、到頭雨はふらなかった。』

心平の「日本砂漠」という詩集に「月蛾」という詩がある。

この詩は、後に刊行された詩集「絶景」にも収められている。引用してみよう。

・   月 蛾

・  豆ランプかすかにとぼり

・  十八の

・  月蛾の耳環ほのかなり

・  石門の荒れた茶館に

・  黙黙の旅の涯なり

・  ああ 音のない

・  とほい 稲妻

・  消えてはおこる桃色の

・  はるかなる 天の動脈

・  爪ひかる

心平は、大陸をさすらい歩くうら若い月蛾と 豆ランプがかすかにともる茶館の一室で向かい合っている。

遠く稲妻が光る。

月蛾は歌わない。

耳環だけがほのかに揺れている。

何が月蛾を寡黙にさせているのだろうか。

・  ああ

・  十文字愛憎の底にして

・  石家荘

・  沈みゆくなり

月蛾たちの愛と憎しみとが十文字に交差しているこの石家荘、その街はこの白い夜の中に重く深く沈んでいく、そんな夜だ。

「十文字愛憎」は、「愛」と「憎」という対立概念が交差する精神的抽象的な意味合いが、南北を結ぶ路線と東西を結ぶ路線の二つの鉄道路線が石家荘で十文字に交差している具象的な事実に即して表現されているのではないかと思う。

以上で詩「石家荘にて」をざっと見てきたが、ここに日中戦争中、軍馬を曳いて石家荘に入った人がいる。

誰あろう、組曲「草野心平の詩から」初演の慶応義塾ワグネルソサエティー男声合唱団を指揮した、20歳のころの畑中良輔先生である。

畑中先生はこの組曲初演に際し、慶応ワグネル定演プログラムに次のような一文を書いておられるので、それを転載させていただく。

『すぎしものへ    畑中良輔

その夜も、私は北支の茫漠たる平野の只中に置かれていた。

その数日、私達は貨車の中につめこまれ、北支から中支へと南下をつづけていたのだ。

月が単調なくりかえしを空で続け、私達は無感動にそれを眺めた。平野には山もなく、音もなく、ただ無表情な土ばかりが月の光を鋭くはね返していた。

この平野の中に取り残された小さな町は、死んだもののようであった。

土で造られたどの家もが、歌を忘れてしまったもののように冷え切って私達を迎えた。

私達は鉄砲を肩から降ろし、誰も何も言わず、土蔵の片隅に眠りこけた。

死の町は深く沈んでいくもののようだった。

×    ×    ×

十数年前ぼくを過ぎ去ったこの風景を、ぼくは完全に忘れていた。

この夏、本栖湖で多田氏のこの新作の練習にとりかかり、第1曲「石家荘にて」を音にした時、ぼくの心の中に突然この風景が甦った。

それは全くの唐突の激しさでぼくを襲い、もう二度とぼくの人生に、あの兵隊の哀しい日々は繰り返さなかった筈だったのに、多田氏のこの曲は、ぼくに失われた日々を感動的に喚び起こしてくれた。

・  十文字愛憎の底にして

・  石家荘

・  沈みゆくなり

パセティックなハ短調でこの部分がひびいた時、ぼくは心の中にしずかないたみと激動が交錯するのを覚えた。

ぼくの心の中にあるパトスの世界が、今晩この曲の中に充ち溢れるに違いない。

それはぼくの失われた日々のための挽歌であるかもしれない。

そして、この曲をワグネルのために(そしてぼくのためにも)書いて下さった多田氏に深い感謝を捧げずにはいられない。』

畑中先生のこの稿は、昭和41年6月に音楽之友社から刊行された合唱名曲コレクションB7「草野心平の詩から」の表紙裏にほぼ全文が転載され、多田武彦さんはこれに次の一文を添えた。

『この言葉は、この組曲を初演していただいた畑中先生が、その日のプログラムに書かれた一節ですが、作曲家にとってこれ程嬉しい言葉はなかったので、この組曲の出版に当たって掲載させていただきました。   多田武彦』


 【 天 】

・  出臍のやうな

・  五センチの富士

・  海はどこまでもの青ブリキ

心平は一体どこから富士山を見ているのだろう?

飛行機から? いやいや、飛行機からの高さではない。

飛行機からはそのようには見えない。

この詩は、1951(昭和26)年、新潮社から出版された詩集『天』に収められている。心平48歳の秋である。

詩集の題字は高村光太郎の筆になる(高村光太郎とのことについては「雨」の項、10頁参照)。

この詩集の巻末に「天について」と題する奥書がある。

この詩を読み解き、心平にとっての「天」を理解するために、これを引用してみよう。

『天という題字は自分にとって空恐ろしい。

けれどもそれには少しばかり理由があった。

数年前、私の「天」に就いての或る人のエッセイが詩の雑誌にのったことがあった。

私はそれまで天といふものを殊更に考へたことはなかったのだが、ふと、私も気まぐれから、従来の詩集をひらいて天のでてくる作品に眼をとほした。

あるあるあるある。

私のいままで書いた作品の約70パアセントに天がでてくる。

或ひは空とか星雲とか天体のさまざまな現象などが。

実をいふと私はぽかんとあきれたかたちだった。

富士山の詩を私は永ひあいだ書いてきたやうに思ふが、もともと富士山などといふものは天を背景にしなければ存在しない。

この詩集に収録した作品にも矢張り、その70パアセント位に天がでてくる。

雲の動きほど時間を意識させるものは私にはない。

時空混淆の場としての天、それを背景にして、これらの作品は或る程度なりたってゐるやうに思はれる。

けれども天をぢかの対象とすることは私には重すぎることだ。

だから天といふ題名をもってきたことに就いては一人の方の私はも一人の方の私を幾分さげすんでもゐる。』

・  人間も見えない

・  鳥も樹木も

「時空混淆の場としての天」と心平は言う。

時間と空間とがいりまじった、心平の想像力による場であり、この場を見つめ、把握しようとする。

この詩では、心平はその想像力によって天の高みに上がり、下界を見おろしている。

そこからは山並みも平野も川もすべて平坦な地表に見えるだけで、もちろん人間も見えない、鳥も樹木も。

どこまでも広がる海も青い平らなブリキ板のようにしか見えない。

富士山だけが五センチの出臍のように突き出ている。

そこはどのような「場」だろうか。

・  あんまりまぶしく却ってくらく

・  満天に黒と紫との微塵がきしむ

・  寒波の縞は大日輪をめがけて迫り

・  シャシャシャシャ音たてて

・  氷の雲は風に流れる。

難しい語句はない。この詩の鑑賞者はめいめいに自分の感性で想像をふくらませるほかない。

心平に寄りすがって自分を心平のいる高みにまで引き上げると、なにか見えてくるものがあるのではないか。

この詩の主人公(主題)は富士山であり、その存在と背景にある天とを、多田さんはシンコペーションとアクセントを多用しながら速いテンポで歌わせている。

これに対して、存在(富士山)に対する非在(「人間も見えない。鳥も樹木も。」)の短いフレーズは弱声で、8度平行進行によるやや遅いテンポで歌うことによってこれを印象づけるとともに、存在(富士山)を強調している。

×  ×  ×  ×  ×  ×

心平は、科学の世界と詩の世界を相反するものとは見ていないようである。

科学者もまた詩人であり、詩人もまた科学者である、そういう思念を心平は持っていたと言われている。

詩集『天』の巻頭を飾る作品「原子」を次に掲げてこの稿を終わる。

・   原子

・  インディゴ・ガラスの

・  はるかはるか

・  はるかのはての涯のないはての

・  アンドロメダ

・  唸る星雲

黒びかりする闇のなかにぽつんとともる中心の核。

眼には見えずしかも正確に形成される人間の途方もない夢の結晶。

・  核は一つの星

・  精力は星の

・  雲の渦巻き

それが天體のそれのやうに

やがては凄烈な美が生れる

冷たく堅く青くつき刺す

・  その光

・  億萬あつまり

乱反射する虹の燦爛

「ここでは永遠無限の大宇宙をつくる天体と極微の小宇宙をつくっている原子との照応、ないし同位の磁力圏のなかでの同心円的活動とを描き出している。」(大滝清雄「草野心平の世界」から)


  【 金  魚 】

 多田武彦さんは、この組曲を作曲するに際し次のように言っておられる。

「セザンヌやモネの好きな私の心に、モネの画風に似た『金魚』がまず浮かんだ。」と。

・  あをみどろのなかで

・  大琉金はしづかにゆらめく

・  とほひ地平の支那火事のやうに

・  支那火事が消えるやうに

・  深いあをみどろのなかに沈んでゆく

そして多田さんはさらにこう言われる。

「作曲するに当たって、私はこの詩に心酔し切っていた。

青みどろの中の金魚を眺めていると、それがいつの間にか支那火事のように見える。

そしてその支那火事は、と想像した私の背中にふと快い戦慄が走った。

何という見事な表現だろうと思った。この詩一つが、私にこの組曲を作らせたといっても過言ではない。」

あおみどろ = 接合藻類ホシミドロ科に属する淡水緑藻。

藻体は糸状、毛髪状で細く長く、田や池など富栄養の水中に生える。

触るとぬるぬると滑る感触がある。

大琉金 = 琉金。金魚の一品種。普通、観賞用として飼育し、赤色または赤と白との斑のものが多い。尾の鰭はよく発達している。

江戸時代に琉球から渡来した。

支那火事 = 中国の大平原のはるか遠くに眺める野火。支那は外国人(中国人以外)の中国に対する呼称。

Ex. 英China 独China 仏Chine 伊Cinなど。わが国では江戸中期以来第二次世界大戦終了まで用いられた。

心平は書展を開いたり、画集を出したりして、書画をよくする人でもあったが、この詩は、池にゆらめく大琉金の印象を絵画的に描いた詩である。

また、多田さんは言う。

「(音楽の)三大要素の一つである和声は、画で言えば色彩」だと。

さらに続けて「この組曲もずい分多くの名演をしてもらったが、ただ、作曲家の心残りは、たとえば金魚の冒頭や再現部。

あるいは、平行4度の部分など、色彩感を強調したいところでハモってくれないこと。

ハーモニーは、音程を正しく歌っても出てこない。

他のパートが微妙にゆれ動くと完成しない。

要は、作曲家の描いた色を、メンバーのみんなが知っていないと、瞬間瞬間で即応出来ない。」と。(1990(平成2)年1月ごろの言葉)

このことは、技術的には、ときどき上床指揮者がチューナーの緑色赤色の点滅を団員に示すなどして正しい音程をとるための訓練をされているので、これに即して正しい音程をとることと各パートがノン・ヴィブラートで歌って音のゆれをなくすことによってかなり実現できる(テンポとリズムの正確性は言うまでもない)。

そして、作曲者の描いた色、曲想を皆が共有することである。

曲は冒頭、7の和音で始まり、和声が同度―上行―下行と並進行し、複雑微妙な音を連ねて、濃いみどり色のあおみどろの中で赤い琉金がゆらめくさまを表現している。

そして、遠い地平の支那火事のように、その野火が消えていくように、低声部の二声が平行四度進行で上行、下行しながら「深いあおみどろのなかに沈んでゆく」とフェード・アウトする。

この間、各声は音階的進行(順次進行)をし、跳躍的進行をしない。

これがあおみどろの中にいてその形もはっきりしない琉金がゆっくりとたゆたっている様子をよく表している。

・  合歓木の花がおちる

・  水のもに

・  そのお白粉刷毛に金魚は浮きあがり

・  口をつける

・  かすかに動く花

・  金魚は沈む

あおみどろと大琉金の水中世界から、合歓木の花が咲き水面に向かって落ちていく空間へと場面が変わる。

合歓木は原野、川原、雑木林などの日当たりのよいところに自生し、6月下旬から8月上旬にかけて南から北へと順次開花する(京阪神や東京では7月下旬ごろから)。

花は枝先に球形をなし、雄蕊(ゆうずい 雄しべ)はあけぼの染めのようなぼかしの淡紅色で美しい。

これが多数糸状に立っていて、まるでお白粉刷毛のようにみえる。

お白粉刷毛のような合歓の花が水面に落ちると、大琉金は餌になる虫が落ちてきたのかと思って、いや、そんな散文的な情景ではなく、自分をもっと美しく装ってくれる化粧刷毛が落ちてきたものと思って、水面に浮かび上がり、そっと口をつける。

合歓の花がかすかに動く。

それが餌になる虫ではないと分かって、ではない、美しく粧いを整えて、琉金はまたもとのあおみどろの中に沈んでゆく。

・  輪郭もなく

・  夢のやうに

・  あをみどろのなかの朱いぼかし

・  金と朱とのぼんぼり

大琉金はふたたびあおみどろの中で朱いぼかしのようにゆっくりとたゆたう。

くっきりとした輪郭もなく、夢のように。それはまるで金と朱とのぼんぼり。

ああ、なんという艶めかしくも美しい情景であることか。まさに一幅の音楽的絵画である。

この詩「金魚」は、小説新潮1951(昭和26)年8月号に掲載され、同年刊行の詩集「天」に所収されている。

心平は1957(昭和32)年7月に出版した随筆集「点・線・天」の中で、「私は数年前『金魚』という詩を書いたが、それは北京中央公園で見た金魚のイメージをかいたものだった」と述べている。

北京中央公園?

これはどこか?北京市地図を眺め回しても、地名事典を調べても、ない。

東西南北各サンホアンルーという環状に繫がっている大道の内側を北京市中心部とすると、その中にある主な公園としては天安門を入ってすぐ左の中山公園、故宮博物院の背後の景山公園、故宮博物院の西北にある北海公園、市街地東南に天壇公園、西南に陶然亭公園、西北に紫竹院公園、北東に柳蔭公園などがある。

中国を第二の故郷とした心平だが、彼が中国にいたのは昭和20年の敗戦までで、翌年には郷里の福島県に帰っている。

そして、訪中文化使節団副団長として再び中国を訪れたのは、1956(昭和31)年9月のことであった。

だから心平が金魚を見た北京中央公園というのは、1949(昭和24)年10月の中華人民共和国建国以前の中華民国時代であったことになる。

中華人民共和国によって呼称が変更された地名も沢山あると思われ、北京中央公園もその一つではないだろうか。

これは単なる私の想像で、根拠はない。

どなたかご存じの方はご教示願いたい。

ともあれ、1956(昭和31)年に再び中国を訪れた心平は、杭州の岳王廟というところへ行ったとき、再び立派な金魚を見た。

このときの金魚も同じ「金魚」という題名の詩となって昭和36年に発表され、詩集「マンモスの牙」に収められた。

この詩を最後に掲げてこの稿を終わる。

   金 魚

・  氷雨はサルビアの炎をぬらし

・  白萩の花をぬらし

・  物干竿には光る真珠のつぶつぶ

・  錦木のべにむらさきのはっぱをぬらし

・  ライラックの裸をぬらし

氷雨はちっちゃな池の青みどろをしずかに冷たく強く叩く

そのなかの赤いわんたん

・  わんたんたち

睡蓮の葉は水のおもてで枯れ腐り池の深みに沈み

くわいの葉や茎も枯れ腐り池の深みに沈んでいる

・  その深みのなかの

・  赤いわんたん

・  わんたんたち

いまこそ孤独で生きられないわんたんたち

よりそって触れずあんまり離れず

物たべず動かず時時動き

赤いわんたんたちは

いまこそ独りで生きられない


 【 雨 】

志戸平の温泉宿で借りた番傘―その番傘には「第五号」と番号がふられている―をさして、心平は雨の中を高村光太郎が孤棲する山中の寓居を訪ねようとしている。

昭和21年9月のことである。

志戸平温泉 志戸平温泉は、岩手県花巻市の花巻温泉郷にある温泉の一つで、東北本線花巻駅からバスで約20分、東北新幹線新花巻駅からだと30~40分のところにある。

心平が志戸平を訪れた当時は、花巻駅から花巻温泉郷各地に花巻電鉄という軽便鉄道が走っていたが、昭和47年に廃線となり、バス運行に変わった。

因みにT2福田さんは廃線3年前の昭和44年11月に、この軽便鉄道に乗って志戸平温泉に行かれたそうである。

豊沢川沿いに近代的大型ホテルと和式の旅館がある。

泉質は単純泉と含食塩芒硝泉。8世紀終わり頃、平安時代初期に蝦夷征討に向かった坂上田村麻呂の軍が矢傷を癒すため逗留したとされているが、湯治場として利用されだしたのは元禄時代からということである。

高村光太郎 高村光太郎(明治16・3~昭和31・4)は誰もが知っている詩集「智恵子抄」で有名な詩人、彫刻家。

光太郎は、東京美術学校を経て明治38年アメリカに留学。

その後数年の欧米留学の後、ヨーロッパの近代的精神を身につけて帰国し、わが国の人道的文学の系譜の中ですぐれた成果をあげた。

しかし、満州事変(昭和6年)から支那事変(昭和12年)あたりを境に、当時多くの文学者がそうであったように光太郎もまた「戦争詩人」の立場に踏み込むに至り、積極的に戦争詩を書いた。

この間に昭和13年には精神を病む妻智恵子を亡くし、自身も宿痾の病肺結核を患った。

さらに昭和20年4月の東京大空襲で駒込の自宅、アトリエが全焼し、5月に岩手県花巻市にある宮澤賢治の実弟宮澤清六方へ疎開したが、ここも空襲で焼失。

同年10月、花巻郊外の稗貫郡太田村山口の山林に小屋を建て、農耕自炊の生活に入った。

この小屋は人家から孤立したところにあって、冬は積雪に埋もれた。光太郎の山小屋暮らしは昭和27年(光太郎69歳)までの7年間に及ぶ。

この山林中の孤棲は、多くの戦争詩を作った自己を処断する意味があったという。

その頃草野心平は…。心平はかつて中国広東にあって嶺南大学に学んだが、その当時の中国人の友人からの要請を受けて、昭和15年8月、日本の傀儡政権といわれた中華民国国民政府汪精衛(=汪兆銘)政権の宣伝部顧問に就き、南京に赴いた(「石家荘にて」の項、3頁参照)。

昭和17年11月には、大東亜文学者会議に中国代表の一人として参加する。

しかし、敗戦により、昭和21年3月、上海から帰国し、故郷の福島県磐城の小川郷に帰り着く。

敗戦による喪失感などから失意の日々を送る心平にとって、心の支えとなり、文壇への活動に引き戻してくれたのは高村光太郎であった。

「晩年の光太郎を介して心平と深くかかわり、心平がその赫灼たる生を終わるまで、2人の交流の一部始終を身近にあって見てきた」という詩人北川太一氏(私は20年ほど前の尾崎喜八の蝋梅忌の席上で、この詩人を識った)によれば、心平にとって光太郎は「人間心平の心の底に、いつも重く親しく、とび切り篤い敬愛の対象として生き続けた高村光太郎」という存在である。

失意の中にある心平は、福島県磐城から岩手県太田村へたびたび足を運んだ。

昭和21年9月、花巻郊外志戸平温泉のとある旅館に止宿した心平は、第五号という番号が入った宿の番傘を借りて、雨の中を光太郎の住む太田村の山小屋に向かおうとしている。

・  志戸平温泉第五号の番傘に

・  音をたてる

・  何千メートルの天の奥から並んでくる雨が

・  地上すれすれの番傘に音をたてる

何千メートルという高い天空から雨滴となってまっすぐに並んで降ってくる雨。

天と地とに挟まれて番傘の陰に隠れているのは心平自身。

その心平のさす番傘に雨がバラバラ、バンバンと音をたてて降ってくる。

・  林檎畑にはさまれた道に

・  さうして墜ちて沁みる

・  点

・  点

・  天の音信

・  靄が生れひろがり空にのぼる

心平は林檎畑にはさまれた道を辿っている。

「そこからは奥羽山脈の腰部が灰色の林檎の木の枝々の向こうに見え、その山嶺には雪が積もっている」(草野心平「山に訪ねて」から)

――そんな山道だ。その山道に何千メートルかの天空から、雨が番傘にバラバラと音をたてて降り、地に墜ちて沁みる。

こうして天は雨によって地に対して音信を送ってくる。

雨は点、点と地上に墜ちて土に沁み、こうして水を含んだ地は靄をうみ、靄は空にたちこめ、天に返信を送る。

天地の交歓である。

失意の心平はその中にあって生命の息吹きを感じ、生の喜びを見出したのではないか。

そして「篤い敬愛の対象」である高村光太郎をこれから訪れるのだ、という喜びに興奮を覚えていたのであろう。

それが、失意の日々、雨の降る中にいる状況にあるにかかわらず、この詩に明るさを生み出しているものと思われる。

ところで、この曲「雨」の作曲上のプロセス――位置づけ――について、多田武彦さんは次のように述べられる。

構想を練っているうちに、この「石家荘にて」「天」「金魚」は、心平さんの詩の中でも殊のほか、読者に凄まじい緊張感を与える詩群だ、ということに気付いた。

このことが4曲目の湯治場の「雨」を生んだ。ホッとする詩と曲が欲しかった。

そしてとうとう、この延長線上の終曲には、気を抜くことが出来なくなってしまった。

私の今までの作品にはなかった曲想を求めているうちに「さくら散る」に到達した。

詩の内容のスケールの大きさを湯治場の雨の日本的な情趣でくるんで歌いたいと思う。


 【 さくら散る 】

この詩は、詩集「天」(昭和26年刊、心平48歳)に収められている作品である。

平仮名表記の文字の配置が、さくらの花びらの空間に舞い散るさまを巧みに表現している。

小説家・翻訳家豊島与志雄は、「草野心平詩集」(新潮文庫 昭和二七年刊)を編集するに当たり、心平の場合、通常行われるように各詩集から代表的な作品を選んで並べていく方法は意義が乏しいと考え、作品の内容や性質によって比較的類似のものを一纏めにする方法をとった。

それは8つの区分に分類して編集したのであるが、「天」、「中国」、「海」、「富士山」、「蛙」などの分類と並んで「絵巻物」と分類された詩群がある。

この「さくら散る」は豊島与志雄編の詩集には採録されていないが、明らかにこの分類に属する詩である。

この詩集に採録された詩「鬼女」は、心平の詩集「天」では「さくら散る」のすぐ次に配置されていて、桜と紅葉が対をなして扱われている。

・  「鬼女」は、

・  紅葉のくれなゐ

・  かへでの黄

・   (中略)

・  落下する滝の

碧に映る黄とくれなゐの鹿の子まんだら

こはくの太蔓をぴいーんとはねて降りたった鬼女は

・  うるしの髪を右手でかきあげ

・  うすら笑ひの青白い頬

・  血糊の口を

・  がぶがぶすすぎ

(中略)

・  血糊をすすぐうつ伏せの

・  髪毛押しわけて角がたち

・  水鏡の笑いの口に牙がのび

・  光り舞ひ舞ふ無数の木の葉

・  金とべにとの

・  金とべにとの

・   (中略)

滝壺におちた錦の帯は

龍のうねりのそのやうにぎらぎら光り沈んでゆく

・  その青黒い澱みのなかへ

・  舞ひおちるおちる舞ひおちる

・  金とべにとの

・  金とべにとの

(後略)

という詩で、これは能の世界、極彩色の能舞台の絵巻物である。

「鬼女」と対をなす「さくら散る」は、能舞台に桜の木があり、天井から花びらが音もなく舞い落ちてくるばかりの世界である。

登場人物が誰もいない、ただ花びらが舞い落ちてくるばかり。

光と影が入り交じり、雪よりも死よりも静かに舞い落ちる花びら。

光と夢が入り交じり、ガスライト色のちらちら影が生まれては消え、花が散る。

永遠に、とも思える桜の落花の中で東洋の時間が流れ、さてどんな物語がこれから展開していくのであろうか。

夢をおこし、夢をちらし、はながちるちる、おちる、まいおちる。

「日本の時間」とせずに「東洋の時間」としたのは、中国を第二の母国としていた心平の視野からではないだろうか。

この詩がつくられた敗戦後間もなくの時期においても、日本、中国という境を超えた「東洋」に生き続けた心平のこころではないか。

心平と中国との関わりについては、「石家荘にて」「金魚」「雨」の解説の中で少し触れた。

ところで、大滝清雄という詩人の「草野心平の世界」という著書によれば、心平の父は歌舞伎好きで、彼をよく歌舞伎見物に連れて行ったらしく、後年、心平はよく歌舞伎の名台詞の声色をよくしたらしい。

これまでに何度か述べたとおり、多田武彦さんも幼少時、祖父に歌舞伎や浄瑠璃見物によく連れて行かれ、これらに親しんでこられた。

こうしたことが、心平と多田さんの美意識に重なり合うものがあったのかも知れない。

ここでもう一度「さくら散る」の楽譜を見てみよう。

「ちる ちるちるおちる」に続いて、5連符による「まいおちるまいおちる…」という流れが楽曲のほぼ全体にわたって通奏低音的に歌われ、これをぬって「はながちる 光と影がいりまじり 雪よりも 死よりもしずかにまいおちる」とメロディーが唱される。

それは決して一本調子な進行ではなく、多田さんはデュナミーク、アゴーギグ、コロリートといった西洋音楽の装飾性の駆使を要求しておられるように思われる。

このことは、この詩を動画の絵巻物と考えると、雪のような死のような「静」の世界の中で「動」を示すさくらの花びらが散るさまは常に均一の散り方ではなく、向こう側が見えないぐらいに大量に舞い落ちてくる瞬間もあれば、わずかの花びらがひらひらと舞い落ちる瞬間もあることを示している。

そしてこのように生と死とが隣り合わせになったような世界では、時間の進行も止まっているように感じられるが、曲の中間部の「東洋に時間のなかで 夢をちらし 夢をおこし はながちる」の部分では時間が動き出している。この後にはどんな絵巻が展開されるのであろうか、と。

かくしてまた、「まいおちるまいおちる…」が poco a poco dim して終熄を迎えるかと思った瞬間、大量の花びらが舞い落ちてきて、f で「まいおちる」と歌って曲が終わる。

その絵巻が終わった瞬間、そこにはなにもない空間だけが残り、現実世界に戻る。陶然とし呆然としていた聴衆はわれに返り、嵐のような拍手を送る。

この組曲の歌い納めの鮮やかさ。

                                                                                              (完)

コメントは受け付けていません。