組曲「雨」をめぐるとりとめない随想 1-3     林 茂紀

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1.雨 雨
2.雨の日の遊動円木
3.雨の日に見る


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1.雨 雨
. 或る時一人の男がつぶやいた。
「こんな抽象的な詩、なに言ってるのか分からんし、かなん」
ところは京大時計台ホールを出た広い廊下。なにやらホッとした雰囲気が、その上気した顔や椅子に背凭れた様子から観て取れる。
するとすぐ傍に立っていた別の男が、それに応えるように話しだした。
「『ドラドラド』って雨がトタン屋根を打ちつける音やろ。そして『ティータタタタ』は雨がガラス窓に当たる音ちゃう?」
「・・・・じゃあ『ガラスの花』ってなんや?」
「それは雨粒がガラスに打ち当たってパッと広がる。それが一つひとつ花が咲くように見えるってことやないの・・・」
一瞬なる程という雰囲気が生まれる。が、男はそれで黙ってはいない。
「じゃあ、『雨はいちんち眼鏡をかけて』ってのは、なんのこっちゃ」
「それは・・・」と言いさして、訳知り顔の男は一瞬詰まったが、
「ガラス窓に打ちつけた雨粒が、まあるく凸レンズのようになって、ちょうど眼鏡をかけてるように見えるってことちゃう?一日中・・・」 と、したり顔で続けたものの、勢いで無理にこじつけたような様子。それまで二人のやり取りを面白そうに聞いていた数人の仲間たちも別の話題に移っていった。
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.   たまたま居合わせた別の男は、その場を離れながら心のなかで呟いた。
「あれは尾形亀之助の『雨 雨』の詩のことだな。さっきまで歌っていた合唱団の連中のようやから、この詩を合唱で歌っているんか。それにしても最後は無理があったな」と苦笑しながら、「それに、詩というのは説明して納得させたり、したりするものでもないよな。
第一それで済むなら詩はいらない。音楽だって同じ」と続けながら、まだ賑わいの残る時計台前の明るい広場へ歩いていった。
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.   先刻したり顔で解釈めいたことをした男は、後で恥じ入りながら合唱団の先輩が貸してくれた「なまずの孫3びきめ」を読んでいる。
それは深澤眞二氏(奇しくも大学時代歌っていた合唱団の後輩)が記した本だった。そこに、当の「雨 雨」について記した一文があった。
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.  「雨 雨」の、ローマ字の大文字を用いる手法は、明白に初期の北原白秋の模倣です。亀之助が関わっていた文芸雑誌の仲間に流行していたようです。
.  この詩においては激しい雨の擬音を示すために使われていますが、「どらどらど」とか「ドラドラド」とか仮名で書くよりも、もっと硬質な感覚を示すことに成功しており、「ガラス」というモチーフに結びついています。亀之助の詩における「ガラス」(類語としての「眼鏡」も)は、現実から隔離された状態で時間が過ぎていく感覚を表しているようです。
.   雨に振られて過ごす一日の、まるで絵の夢を見ているような非現実感(後略)。
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.   ここまで読んだ男は、「雨の擬音」と「非現実感」から連想するようにして、全く別の詩を想起した。男は九月来、放課後残って宿題をする子たちの相手をすべく、毎週月曜日の午後、頼まれて地元の小学校に赴いている。その教室で、思い出そうとしながらできないでいた詩に出会ったのだった。
.   尾形亀之助の「雨 雨」は1925年11月刊行の詩集「色ガラスの街」所収(亀之助24歳)。一方、この詩は1947年作。時代も異なるが、「ざんざか」という擬音が印象的で、男の記憶に刻まれていたのだった。
彼は、子らに対応する合間を縫って、その詩を書き写した。
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. あめ
. 山田今次
. あめ あめ あめ あめ
. あめ あめ あめ あめ
. あめは ぼくらを ざんざか たたく
. ざんざか ざんざか
. ざんざん ざかざか
. あめは ざんざん ざかざか ざかざか
. ほったてごやを ねらって たたく
. ぼくらの くらしを びしびし たたく
. さびが ざりざり はげてる やねを
. やすむことなく しきりに たたく
. ふる ふる ふる ふる
. ふる ふる ふる ふる
. あめは ざんざん ざかざん ざかざん
. ざかざん ざかざん
. ざんざん ざかざか
. つぎから つぎへと ざかざか ざかざか
. みみにも むねにも しみこむ ほどに
. ぼくらの くらしを かこんで たたく
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.  戦後生まれで、直接戦火を体験することはなかったが、トタン屋根の家に生まれ育った男にとって少年時に出会ったこの詩は、雨に降り籠められた時の実感そのものだった。
.   掘っ立て小屋も町のあちこちに見られたし、その中に潜り込んで遊んだりもしたから、その狭さの中で終日雨に降り籠められたら・・・と思うと、雨音とニオイと閉塞感に取り囲まれ、じっと堪えるほかなくなるのだった。
.  だが、この詩の持つリズムは力強く、雨にかこまれ、たたかれ続ける掘っ立て小屋の中で、「ぼくらのくらし」は、めげることなくしっかりと営まれているという手応え、心意気も同時に感じ取れ、それを思うと元気が湧いてくるのでもあった。
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.  少年時の記憶を辿りながら、亀之助の詩にくらべ遥かに現実的(リアル)ではあるが、ここでの雨はただ単に降る雨にとどまらず、多義的で象徴的な意味も持ち得ていたんだなと、男はつぶやく。そして、ふと気になって「山田今次」と打ち込んで、近年覚えたネット検索をしてみる。
.  すると「昭和期の詩人 1912―1998年」とあった。従ってこの詩を書いた時、彼は35歳。
一方、亀之助の「雨 雨」から深澤氏は「現実から隔離された状態で時間が過ぎていく感覚」「雨に振られて過ごす一日の、まるで絵の夢を見ているような非現実感」を感じ取っている。
降り続く雨に、同じように狭い空間に閉じ込められて過ごす二人の詩人の、この感受性の違いは興味深い。
.  だが,これ以上の深入りはやめようと浅学な男は引き返し、これに作曲した多田武彦氏の読み取りに目を向ける。「DORADORADO」「TITATATATA」が全曲を支配している。
前者がトタン屋根を打ちつける音なら、後者はガラス窓を横殴りに打つ音か。
. 「極めてはやく、激しく」との指示は、打ちつける雨の激しい勢いを表現できるかどうかがこの曲の勘どころということだろう。畳み掛けるようにパートからパートへ引き継がれ、また重なりうごめき、激しさを増す雨こそがこの曲の生命なのだ。
ちょうど「さくら散る」の「まいおちる」のように。そう言えば、この「雨 雨」を高く評価していたのが草野心平だったという。
多田氏がこの二曲を似たような構想で作曲したのも偶然ではないなと思い当たったところで男は、さあ風呂に入ろうと机を離れることにした。
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2.雨の日の遊動円木
. 待たれていた増田さんの「多田武彦 男声合唱組曲『雨』をめぐって」が、先日ついに皆さんのもとに届けられた。詩人の人生と詩、そしてそれを選び作曲された多田武彦さんと作品世界が、抑制された文章を通じて我々の前に提示された。これを読み味わい、曲に向かえばいい。これ以上、何を言う必要があろうかとためらわれるが、こころに動き出すもののあることは否定し難く、あえて再び多少表題を変えて記したい。
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. 三曲目「雨の日の遊動円木」は、三行・四連で構成されていて、すべて「雨の日の遊動円木」で始まり「○○ばかり」で終わる。読む者は、続く二行の詩句に誘われて情景の変化を味わいつつ、また「雨の日の遊動円木」に戻ることになる。その遊具の動きそのもののようなリズム感。多田さんは、それを三拍子で表現している。
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.     雨の日の遊動円木
.    びしょびしょ濡れて、ただ光って、
.    動くは低い雲ばかり
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.    雨の日の遊動円木
.    鐘が鳴っても、昼休みでも、
.    ゆすぶるものは風ばかり
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.    雨の日の遊動円木
.    落ちる銀杏葉、ゆうかりの葉、
.    雀が吹かれて乗るばかり
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.    雨の日の遊動円木
.    びしょびしょ濡れて、もう日も暮れて、
.    八ツ手の花が見てゐるばかり
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. この詩から伝わってくるのは、まず或る種の不在感と言ったらいいか。いつもなら居るはずの子供たちや、その子らでにぎわい揺れ動く遊動円木の不在。
・「動く」のは、遊動円木ではなく「低い雲」ばかり(一連)
・「ゆすぶるもの」は、子供らではなく「風」ばかり(二連)
・「乗る」のは、子供らではなく「雀」ばかり(三連)
・遊動円木を「見てゐる」のは、子供らではなく「八ツ手の花」ばかり(四連)
. 在るのは、降る雨に「びしょびしょ濡れて」いる独りぼっちの遊動円木。
.   それは子供らの不在によって、子供らの遊具としての存在から解き放たれ、まるで他の自然物と同じ存在に還ったかのように、雲や雨や風や葉や雀とともに存在している。

.   大木惇夫の感性は、自身「八ツ手の花」と同化して、日暮れ時まだ雨に濡れ続けている遊動円木に向けられているようだ。
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. この詩が、みごとに韻を踏んでいることも、その形式とともに作曲に少なからず影響しているように思える。
.  一連、三連の一行は「ドミソ」で始まり「ラド」で終わる同じ音型。トップに至っては四連とも全く同じ音型で、ただ入りのタイミングに変化があるだけ(B2に続いて、3パートで二連はの後、四連はの後)。
.   仮にこれをAとすると、T2は[A・B・A・A+B]、B1とB2は[A・B・A・C]となり、変化は主にB系に委ねられていることが分かる。
一方、和音は、各連の終わりはもとより、途中の伸ばすところも基本的に「ドミソ」の和音が鳴る。唯一の例外として二連(11小節)の「あめのひのー(ソファソ)」があるだけで、これでもかと言わんばかりのト長調主和音の連続だ。それに続くのが「ファラド」の和音である(「雲」「風」)「乗る」「見ている」の入り)。この単純さが、この曲にほの明るい親しさと、或る懐かしさをもたらしているように感じられる。
.   この二和音がちゃんと鳴ることはもちろんだが、それだけでは、ただきれいなだけで、味わいの薄いものに終わるだろう。その先、それぞれの詩句に応じてどんな色を出すのかこそが、演奏者の読みと腕に委ねられている、ということになるのではないだろうか。アルマならではの色と味わいが出るように、上床さんと皆さんとともに磨き合っていきたい。
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付:三連に「ゆうかりの葉」が出てくるのが林には分かりません。ゆうかりと言えば、コアラの食料とか、のど飴にもそのエキスが使われるとか、そう言えば口臭ケアのスプレーもあったなくらいの知識しかありませんでした。

.   大木惇夫の生まれ育った広島には、そんなに普通に生えていた、或いは植えられていたのでしょうか。ネットで検索したら「日本には1875年頃に渡来し街路樹や切り枝(生け花)に利用されてきました」とありました。
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……..左端に映っているのが遊動円木(昭和4年)………..「ゆうかりの葉」丸い形に特徴あり
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3.雨の日にみる
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.   過日、自宅近くの農道を自転車で走っていたら、体験農園の一隅に黄色い大きな実が眼に飛び込んできた。 「ザボンか?」そう思い、止まってよく見ようとするが、けっこう遠くて判然しない。大きさはザボンに匹敵するが、何やら凸凹感があり疑わしい。
.   上床さんが練習時に「近所を散歩していたらザボンが見えた」と話してられたので、この辺りで見られてもおかしくはないはず。そう思いつつ家に帰ると、デジカメを手に取って返し、望遠で撮る。それでもやはり判然とはしなかった。勝手に入り込んで泥棒と疑われるのも潔しとしない。諦めることにした。
……
. そこで後日、農園内で作業している人がいる時その旨を告げて、実を付けている木へと近づいて行った。予感は、近づくにつれ確信となった。「これはザボンではいるのを拾うとズシリと重い。大きさも25cmはありそうだ。手の載せながら作業中のおばさんに声をかけ尋ねると、笑いながら「それは鬼柚子、言うんやって。ない」。やはり表面には、深いシワが刻まれていた。激しく凸凹としていて、あのすべすべしたザボンとは程遠い。土手の下に一個転がり落ちて飾り物にするらしいで」と。
. 匂いを嗅いでみると、家の柚子ほど強くはないが、確かに柚子のような香りがする。そのまま一個を持ち帰りたいところだったが、気がさして「ここに置いときます」とおばさんに告げて帰った。

.「鬼柚子」をネットで検索すると、表皮は苦味を抜くなどの手間をかければ栄養価の高い砂糖漬けやマーマレードになるとあった。
表皮の下の白い部分(アルベド)の分厚さはザボン・文旦以上と思われた。
..それにしても、と思う。「冬ほの暗い雨の日は 朱欒が輝く」と詠った詩人の眼に見えたザボンのまあるく輝かしい黄色は、さながら希望そのものの象徴だったに違いないと。
..「冬」は季節を示すだけではない。「冬の時代」という言葉があるように。その暗さの中に「ぽっかり朱欒の浮ぶのを 輝くのを」見た詩人の感動。
それが生まれる瞬間の心の動きを多田さんは、この「ぽっかり」に託しているように思われる。
ただ勢いの続きで通過してしまいたくはない、大切な詩句として歌いたい。
その空間に、さながら朱欒の実が現れ出るように「ぽっかり」と。
(2017年12月27日)