演奏解説

 アルマでは、定演レパートリー曲の練習の合間にいろんな曲を取り入れて練習をしている。その一つに清水脩作曲「最上川舟唄」がある。
この曲は1950年代に清水脩が山形県地方の民謡に材をとり、男声合唱曲として作曲したもので、長く男声合唱をやっている者ならどこかで一度は歌ったことがあるというほどの名曲だ。
 山形地方の民謡の原型をそのまま残して日本旋法に和声を付け、対位的に処理された、まことに構成のしっかりした楽曲で、力強く、歌って元気が出る。
 最上川は、山形県の最南端、福島県との県境にある吾妻山付近に源を発し、山形県中央部を北進、新庄市付近で向きを西に変え、酒田市から日本海へ注ぐ。
その長さは229kmに及び、新大阪から新幹線に乗って名古屋を越し豊橋に到着するほどの長大河川である。日本三大急流の一つに数えられる。
 この曲の練習中、アルマの技術委員長林(以下すべての人名敬称略)は山形民謡「最上川舟唄」を独唱して団員に聞かせた。
 林は山形県中部の村山盆地に所在する左沢(あてらざわ)の出身で、最上川の流域で少年時代を送った人であり、西洋音楽だけではなく日本民謡の歌い手として相当の達人である。
 この林の歌を聞いて、太平洋戦争直後の10年間、少年期から青年前期を酒田市近郊で過ごしたT2前田が早速アルマ・メーリングリストに投稿した。
曰く「林の鼻濁音なしの歌唱には我が意を得たり、という感じであった。本来清音である音節が訛ることで濁音になった場合は、原則として鼻濁音にならない」。
「酒田さ行(え)ぐはげ 達者(まめ)でろちゃ」という歌詞の「酒田さえぐはげ~」の部分を鼻濁音で歌う合唱団があるが、自分は聞いていて気持ちが悪い、と前田はいう。
 このようにして、琵琶湖周航の歌に続き、メーリングリスト上で最上川舟唄談義が始まった。
 これに対して林は「前田の鼻濁音なしの話については有難うございます。ただし、細かく言えば自分の身についた発音と少し違う点がある」とし、さらに「歌詞の『酒田さえぐはげ』は左沢での荷の積換え場面の詞であるから、ここは内陸部の村山地方の言い方『酒田さえぐさげ』にしていただきたい」と返信した。
 これらの山形方言や最上川の舟運に興味をいだいたT2宇野が、林の故郷の西村山郡大江町のホームページを紹介、一気に話題が広がった。
 ここで、前田や宇野と大学合唱団で同じ時期を過ごした後輩B2増田が「もう一つの最上川舟唄」と題して、清水脩曲のほかに坂本良隆編曲の「最上川舟唄」を歌った思い出を語った。
「まっかん大根(だいこ)のしょっつるに 塩しょぱくて くらわれぬちゃ」という清水曲にはない歌詞が紹介され、前田も宇野も長年気に懸かってはいたが、いつどこで歌ったのか思い出せなかった長年の疑問が解けた、と異口同音に述べた。
 7月はじめ、酒田東高校の同窓会幹事会に出席した前田は、会合終了後、旧友に依頼して歌詞を読んでもらい、鼻濁音がないことを確認できたことと、歌詞「行ぐはげ」と「行ぐさげ」の問題は全員が「行ぐさげ」と発音。
「行ぐはげ」は浜の方の人たちの発音ではないか、ということが分かった。
 このほかにも多彩な話題が語られたが、加えて碩学・T2福田の東北地方勤務時代、山形県真室川町在のわらべ歌研究者である先輩を訪ねた思い出が紹介され、林が学生時代にこの研究者に教えを乞うたことも分かり、いつもながらの充実した「最上川舟唄談義」とはなった。
 この談義を締めくくるにふさわしい「最上川舟唄と百目木(どめき)を巡って」と題する散文詩ともいうべき一文を林が草したので最後にこれを掲げて談義を終わる。 (増田博)
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 増田さんからのメールに百目木について以下のような記述がありました。
「先日、林さんの故郷、左沢方面を旅した時、最上川がU字型にターンしているのを見て驚きました。そのあたりは『どめき(百目木)』というそうですが、この度の豪雨のような雨が降ったら、濁流がU字の底辺に当たってど、ど、ど、ど…、という轟音が響き渡るのではないかと思いました。」

 まさにその通りだと膝を打ちました。
南方からの流れが、激しくこの固い岸壁に突き当たりどよめく。
「どよめき」→「どめき」と呼称の由来が語られても来たのです。
ただ、それがこの漢字表記とどうつながっているのかは寡聞にして知りません。
古い航空写真を一枚添付します。

 下が南です。南(米沢・置賜)の方から流れてきた最上川が、ここ左沢(あてらざわ)で大きくまさにU字型に右折しているのが見て取れます。その突き当たりを百目木と呼んでいて、川には簗(やな)が設置され、岸辺には茶屋が開かれ、鮎や鮠などの川魚を焼いて出していました。歌人・斎藤茂吉の随筆にも出てきます。
最上橋より上方の左岸には蔵が並び、舟の中継地になっていたと聞きます。洪水時には泥水に浸かりやすいのも左岸の低地でした。突き当りの堅い崖が崩れ、通行止めになったこともあります。
Uターンした後は、真ん中に中洲ができています。
 ここは少年時代の林にとって、格好の流し釣りの場でした。毛鉤を誂えては日々通ったものです。
突き当りの緑の部分は楯山で、ここに山城が築かれていました。近年の発掘調査でその全容が明らかにされ2009年には国指定の史跡に。
ちなみに、今は郡山に住むぼくの姪(姉夫婦の娘)はその調査に携わっておりました。

 これは新しい橋から最上川上流を見た写真です。
下流(北方)を見たのが下の写真。最上橋の向こう、左方突き当りが百目木(見えにくいですが)。正面の山一帯が楯山城跡になっています。


 毎年8月15日にはこの手前から灯籠が流され、何千本もの蠟燭の火が水面に映り揺れながら、ゆったり流れていきます。小学6年時には、板に打ち付けた釘に蠟燭を差し、点火して次々流す役を担うのが町内男児の恒例でした。そして上空には打ち上げ花火(山形県で最も古くから続く)。幼少時には、花火の爆裂音が怖くて蚊帳のうちに逃げ込んでいたと、姉からよくからかわれたものです。
 林の実家の前、原町通り(航空写真の左岸2筋目)には露天が両側に並び、人通りで賑わいます。

ここが簗場の跡です。右手が百目木。もう一枚。

 小さな丸い穴は「甌穴」(おうけつ)。それ以外は梁場の設置のために削られたものでしょうか。
ここでいよいよ茂吉の随筆に登場してもらいます。

「最上川」(斎藤茂吉)より一部抜粋

 十三歳の時に小學校の訓導が私等五人ばかりの生徒を引率して旅に出た。第一日目は上山の裏山越をして最上川畔のドメキ(百目木)といふところに一泊した。ここに来ると川幅はもう餘ほど廣く、こんな廣い川を見るのは生れて初めてである。また向うの断崖に沿うた僅かばかりの平地をば舟を曳いてのぼるのが見える。人が二、三人前こごみにのめるやうにして綱を引いてのぼつてゐる。かういふ光景もまた生れて初てである。
 暮方になる。川の規模の大きいのを見てゐると、今度は小さい帆を張った舟が、反對の方に矢のやうにくだるのが見えた。
 これは曳舟とは違つてまた特別な印象である。その時『みんな知つてんべ、最上川は日本三大急流の一だぞ』と先生がいつた。その日の夕食には鮎の焼いたのが三つもついたし、翌朝にはまた鮠の焼いたのが五つもついた。何も彼も少年等にとつては珍しい。十二錢づつばかりの宿料を拂つて其處を立つた。
『鮎旨かつたなえ』『旨かつたなえ、おれ頭も皆食た』『おまへ腹わたも食たか』『うん腹わたも食たす、骨も食た』

(以下惜しいけれど略。昭和13年6月22日。)

百目木を行き交う舟(や、ひらた舟)の上り下りが印象的な筆致で実に生き生きと記されていて嬉しくなります。

最後に「百目木甚句」の歌詞を紹介します。

ハア~ 左沢  御日市(おまち)帰りに 
百目木の茶屋で一杯のんで ながむる最上川
あゝ「向こうに見えるは何ぢゃいな
上杉さんのお米蔵」
どんと積んで 下すは 酒田舟

ハア~ 左沢 お米 山と積んで 帆を巻き上げて
今日も 下るぞ 酒田舟
あゝ「いつ頃お帰り 風次第
荷物は何々 松前の 鰊 昆布に鱈 かすべ
京の友禅 博多帯(越後は小千谷の縮織)」
お土産話は たんとたんと

二年前、山下千さんに「知らないのか、何たること!」と言われ、姉を通じて町の写真館のおじいさんの唄を収録したドーナツ盤を入手。
それを聴いて覚え、去年の新年会で披露させていただきました。写真館の方にはCDにしてお返し。「これで聴ける」と喜ばれました。
もっとも、最初は「こんな低い声ではなかった」と言われ、はたと気付けばドーナツ盤は45回転。それを33回転でかけて収録していたのでした。慌てて収録し直し、という「オチ」付きでした。
(林 茂紀)

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