多田武彦 男声合唱組曲「雨」をめぐって    増 田  博

はじめに
1.雨の来る前
2.武蔵野の雨
3.雨の日の遊動円木
4.雨 雨
5.雨の日に見る
6.雨

はじめに
雨、雨、雨、…。
日本の名随筆「雨」(作品社刊)という本の中に、こんな記述があった。
久しぶりに雨になった日、電車のなかで話声を聞いた。
「雨がなかったら、日本人は気が休まらないんじゃないかね。十日降らないと落ち着かないね。」
四季に恵まれたわが国では、雨と人とは特に親しい間柄で、その気象上の自然現象は、古来、人々に様々な情感を感じさせてきた。雨。雨。雨。春雨から五月雨、五月雨から夕立、そして秋霖、時雨、氷雨などなど…。
それにしても、今年平成29年の秋は、福岡県や秋田県で「かつてない」大雨が降って激甚な災害に見舞われ、その後に続く台風21号、22号の影響で連日雨天が続いた。こうなると、気分が鬱陶しいというだけでなく、社会的な厄災である。
閑話休題。
男声合唱組曲「雨」は、明治大学グリークラブからの委嘱作品として昭和42(1967)年2月に作曲、同年5月外山浩爾氏の指揮により初演された。多田武彦さん37歳のときの、第21番目の男声合唱組曲作品である。
多田さんはこの組曲を作曲した経緯や背景を次のように述べておられた。
《 組曲「雨」の作曲にとりかかる前後、「多田さんの曲はだんだん難しく、親しみにくくなってくる。『柳河風俗詩』や『中勘助の詩から』のような、初心者でもある程度の練習を積めば歌うことができて、かつ、香りの高い組曲をいつまでも書き続けてほしい」という声や手紙が多くの方々から寄せられた。
同時に専門批評家や先輩作曲家の先生方からの忠告や助言もあった。こうした背景があって、多くの方々の希望に沿った曲、いつまでも親しんで歌っていただける曲、私が今、真に書きたいと思う曲を書く気持ちが湧いてきた。その中の一つが組曲「雨」である。 》

こうして出来たこの組曲は、各曲が単曲として取り上げ得る完成度を持ちながら難易度はそれほど高くなく、聴きやすく、親しみやすい作品になっている。その数が百曲を超える多田組曲の中でも好んで演奏されるものの一つである。
初演の明治大学グリークラブ演奏会プログラムに、多田さんは次のような文を寄せておられる。
《 第一曲「雨の来る前」だけは昭和35年全日本合唱コンクール課題曲入選作 品であるが、あとの5曲の詩は百何十篇もあった雨の詩の中から、この組曲を構成するのにふさわしいものを選び、秋から冬にかけての季節的配列と起承転結を充分考慮して終曲に導いた。
書き終わった時、私は、いままで経験したことのないさわやかな満足感を感じていた。
なかでも、私が文句なく好きな武蔵野にふる雨をうたった「武蔵野の雨」、誰もいない「雨の日の遊動円木」、孤独な心と鮮やかな朱欒を対照的に歌った「雨の日に見る」、は、作曲してから以後、雨が降るたびに、私の心の中で 奏でられているし、特に最終曲「雨」の

雨のおとが きこえる
雨がふって いたのだ
あのおとのように そっと世のために
はたらいていよう
雨があがるように しずかに死んでゆこう

の詩と曲は、今後私がつらいことにぶっつかった時にも私をなぐさめ、「そっと世のためにはたらく」ことを私にささやくことであろうし、私が死ぬ瞬間にも、私がしずかに死んでゆける鎮魂曲となることであろう。
こういった点で、この組曲は私の作品の中で極めて特別なものとなった。 》
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それでは一曲ずつ見ていこう。
1.雨の来る前
― ざあっとやって来いよ 夏の雨 ―
昭和35年度合唱コンクール(全日本合唱連盟)課題曲入選作品である。私が大学を出てアルマに入団した年の秋のことであった。
アルマは関西合唱コンクール(当時の予選会はまだ都府県別ではなく、ブロック別であった)に出場し、故松木俊明さんの指揮でこの曲を歌った。
自由曲には何を歌ったか忘れたが、Shenandoahではなかったかと思う。輝かしい成績ではなかったが、一般の部で4位ぐらいに入ったはずである。
暑い夏の日、雨雲が立ち込めて、いよいよ夕立がやってくる前の様子を描いている。
北海道小樽市郊外。指揮者上床氏は練習時に「この詩は紙芝居のようだ」といった。山を背景にして前景を映し出したカメラをパンしながら、要所々々の景色を切りとっていく。
夕立が来る前のこの田舎街の夏の絵物語を上床氏は紙芝居と表現した。
詩は伊藤整。明治38(1905)年1月、北海道・小樽郊外塩谷村に生まれる。
詩人、小説家、評論家、英文学者。私が中学生、高校生であった昭和20年代に、伊藤整が完訳したロレンスの「チャタレイ夫人の恋人」が猥褻文書頒布の疑いで刑事裁判となり、相当長期にわたって新聞を賑わしたことや、その後「伊藤整氏の生活と意見」、「女性に関する十二章」などの評論・エッセイを次々と刊行して話題を呼んだことなど、そのはなばなしい活躍がよく記憶に残っている。昭和44(1969)年11月没。
詩「雨の来る前」は大正15年12月に自費出版した処女詩集「雪明りの路」に収められている。
当時21歳の小樽市立中学校英語教師の清純な青春の哀感を北海道の風土の中にうたう、116編の詩からなる詩集である。
伊藤整の生まれ故郷塩谷や小樽近郊の自然や風土を歌った詩、女性との関りを中心にした抒情的な詩、内省的な内容の詩からなっている。
その背景については伊藤整の自伝的長編小説「若い詩人の肖像」にくまなく描かれている。
古くは新潮文庫に収められていたが、現在は講談社文芸文庫で読むことが出来る。
詩集「雪明りの路」の序文では「作品の配列は主として制作の年代によった」としている。
この詩「雨の来る前」は116編を収めた詩集の中で3番目に掲載されている。伊藤整の青少年時代の若々しい感性が書かせた詩である。
この詩には難解な語彙や解釈の難しい語句はない。指揮者上床氏のいう紙芝居の場面が変わるごとに、そこに現れる景色とその情感、それを指揮者の棒に合わせて詩情をよく表現したいと思う。

多田さんはこのあとさき、この詩集から詩を選んで、組曲「雪明りの路」(昭和34年)、組曲「緑深い故郷の村で」(昭和52年)、組曲「吹雪の街を」(昭和54年)、組曲「雪明りの路・第二」(平成15年)と四つの男声合唱組曲を書いておられる。
なかでもとりわけ「雪明りの路」「吹雪の街を」は北海道の厳しくも美しい自然と疼くような青春の哀感をうたって、大学グリークラブを中心に人気が高い作品である。
組曲「緑深い故郷の村で」は、アルマ創立45周年を記念して第33回定期演奏会で故吉村信良さんの指揮により演奏した。
この選曲は多田さんの推薦によるものであった。
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2.武蔵野の雨
第2曲目は大木惇夫の詩「武蔵野の雨」による。惇夫の処女詩集『風・光・木の葉』に収められている。
多田さんは初秋になって空気の透明になった武蔵野をサッと濡らして通り過ぎていく雨を抒情的に季節感を込めて歌った。
この組曲で大木惇夫の詩があと二つ、第3曲目の「雨の日の遊動円木」と第5曲「雨の日に見る」に取り上げられているので、ここで先に大木惇夫のことについて見てみよう。
その天稟を北原白秋に認められ、昭和初期を代表する抒情詩人とも称されていた彼は、太平洋戦争の勃発とともに徴用令を受け召集されて、文化部隊宣伝班の一員としてジャワ作戦に配属された。
その死線の中で著した詩集「海原にありて歌へる」は熱狂的な共感をもって迎えられたが、このことにより敗戦後のわが国社会で彼が世の中から忌避される大きな原因となった。
戦後、彼への白眼視がひしひしと迫り、身辺の労苦は非常に重いものとなったが、それによく耐えて世を過ごしてきた。
惇夫を激励する人もあって元気を取り戻し、各方面からの依頼のあるごとに、これを受けて克明に真摯に責を果たしてきた。
大木惇夫は、明治28(1895)年4月18日、呉服商の長男として、広島市天満町に生まれた。
盛大に営まれていた呉服商の息子として裕福に育てられたが、彼が物心がつく前に祖父と父が事業に失敗し、家は見る影もなく没落してしまった。
惇夫は昭和31年に『緑地ありや』という自伝的小説を書いたが、生家の場所を「この界隈は一体に、淫蕩と艶冶と野卑の雰囲気がまじりあって泥沼のやうに饐え濁っていた。
こうした町に育つやうになってから、小さい私たちは、嫌らしいものや嫌らしいことを見たり聞いたりせずには一日も過ごされなかった。
だから、いやでも早熟にならずにはゐられなかったのだ。」と述べている(『緑地ありや』はすでに市販されておらず、大阪府立中央図書館で読むことができる)。
天満町は原爆ドームから元安川、太田川、さらに天満川を渡った広島市街の西寄りのところで、当時は「舟入遊郭地」と隣り合っていた。
こうした環境も惇夫に影響を与えていたに違いない。
県立広島商業学校に進学した彼は、やがて教室を抜け出し、近くの高等師範学校図書館に籠り、あらゆる文学書を耽読するようになる。
こうして三木露風の詩集「廃園」を読んで病みつきになり、次いで北原白秋の「思ひ出」を読み、その世界に幻惑させられ、白秋に私淑するようになった。
惇夫17歳のころ知り合った二つ年上の女性川上慶子を恋し、その初恋は後に彼の人生において幾多の波瀾を生むことになった。
慶子はやがて他の男性と結婚して渡米してしまう。
18歳で県立広島商業学校を卒業し、三十四銀行(後に三和銀行、三菱東京UFJ銀行)広島支店に就職。
しかし文学志望はやみがたく、20歳の暮れに思いがかなって東京に行き、博文館に就職した。
23歳のとき、5年間別れていた慶子が突然アメリカから帰ってきて、同棲し、幾多のトラブルの末結婚することになった。慶子は肺結核に侵されていた。
大正10(1921)年夏、大阪朝日新聞懸賞募集の芸術小節部門に入選したのを契機に未練を残しながら博文館を辞職し、慶子の肺結核療養のため小田原に移住し、文筆生活に専念する。
一年後、小田原在住の北原白秋の知遇を受け、詩作生活の道が開けた。
大正14年には白秋の推挙によりアルス社から処女詩集『風・光・木の葉』を出版、これにより惇夫は詩人として文壇での地歩を確立した。
そして、大正15(1926年には第二詩集『秋に見る夢』を、昭和5(1030)年には第三詩集『危険信号』を出した。
「武蔵野の雨」は『風・光・木の葉』に、「雨の日の遊動円木」は『秋に見る夢』に、「雨の日に見る」は『危険信号』に、それぞれ収められている。
このほか主な詩集としては『カミツレの花』(昭9)、『海原にありて歌へる』(昭17)、『日本の花』(昭18)、『失意の虹』(昭40)、『殉愛』(昭40)などがある。
そして昭和8(1933)年、慶子は肺結核に直腸がんを併発して、40歳で逝去。ここに大木惇夫の人生前半の幕が下りた。
昭和16年、大東亜戦争が起こるや徴兵令を受け、文化部隊宣伝班の一員としてジャワ作戦に配属されたことに始まる人生後半は、惇夫紹介の初めに述べた通りである。
詳細は省くが、再婚した妻との間に生まれた次女・宮田毬栄の著書『忘れられた詩人の伝記 父・大木惇夫の軌跡』に詳しく述べられている。
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さて、「武蔵野の雨」である。
短いけれども、その詩句の行間に武蔵野の初秋の清涼な空気がそこはかとなく感じられる抒情詩である。
8月末から9月初めにかけてのころであろう。
ようやく初秋の風がそよぎはじめ、空気も澄んできた武蔵野に、時雨もどきの雨がさあーっと降り注いでくぬぎ林を濡らしながら通り去って行く。
くぬぎの木に宿っていた群鳥が突然さあーっと降ってきた雨に驚いて逃げていく、そのあとを追いかけるように降り過ぎていく雨。
初秋のきれいな満月を(雨雲が)掠め取ってしまうような雨。
ちなみに、武蔵野は古来、月の歌枕である。くぬぎの木が濡れて、(甲虫やクワガタを誘う)樹液の匂いがぷんとにおってくる雨。惇夫の自然への眼差しがよく表れている。
いつかのアルマでの練習の時、指揮者が「この詩の季節はいつでしょうかね」と皆に問いかけたことがあった。
「くぬぎの木の花が咲く5、6月ごろ」という答えが一、二あった。
しかし、この詩を読んで、その雰囲気は5、6月ごろのように空気中に水分の多い季節ではなく、もっと透明感を感じる。
また、くぬぎの木の花の匂いは「ぷんとする」というよりは「むんとする」いささか暑苦しいにおいである。
しかも雨が降らなくてもにおってくる。そして、「月」。この澄んだ月に突然雨雲がかかって、月を掠め取ってしまう雨。
こう読んでいくと、季節は初秋と感じてしまう。
多田武彦さんが前述の通り、明治大学グリークラブ演奏会プログラムに「2曲目から5曲目までは秋から冬にかけての季節的配列と起承転結を充分考慮して終曲に導いた。」と書いておられるように、多田さんも同じような思いを持ってこの詩を読まれたのではないだろうか。
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3.雨の日の遊動円木
「雨の日の遊動円木」は、惇夫の第二詩集『秋に見る夢』の「遠景哀慕」の章の末尾に収められている。
この章は広島で過ごした彼の幼少年時代を追憶した作品が集められている。
詩は、惇夫が通った天満町の尋常小学校の雨の日の校庭の風景、そこにあった遊動円木をうたったものであろう。
冷たい雨が降って、鐘が鳴って授業が終わっても、昼休みでも、誰もいない校庭。遊ぶ子供もいないびしょびしょに濡れた遊動円木。
そこに貧しく独りぼっちだった自分の姿を投影している。
しかし惇夫にとって、雨の日は体操の時間が唱歌の授業に変わって、自分の夢を自由に飛翔させることができる楽しみな時間でもあった。
雨の日の遊動円木をひとり教室の窓から眺めて、惇夫は詩的な想像の世界を駆け巡っていたのだろう。
この詩には難しい言葉は一つもないが、「遊動円木」は見かけなくなってしまった。
小学校や幼稚園で何度か事故が起こって危険遊具とみなされ、老朽化をシオに撤去されて行ったらしい。
私の子どもの頃は、どこの学校にも「遊動円木」「攀登棒(はんとうぼう)」「肋木」などがあって、児童の運動能力の向上に役立てていたものだ。
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4.雨 雨
男声合唱組曲「雨」の第四曲目は「雨 雨」。詩は尾形亀之助の第一詩集『色ガラスの街』(大正14(1925)年刊)から。
亀之助は、明治33(1900)年、仙台市郊外柴田郡大河原町で酒造家の長男として生を受けた。
その生家は東北地方屈指の多額納税者であった。
東北学院中学部を5年次で中退し、絵画に傾倒した亀之助は上京して村山知義らと美術団体「三科」を興した。
また、詩誌「亜」の同人になって短詩ふうの作品を発表し、大正14年に「色ガラスの街」を出した。
昭和4年5月の第二詩集『雨になる朝』刊行後は次第に絵画、詩から遠ざかり、29歳にして人生から逃亡するかのような姿勢をとっていた。
20歳のとき最初の妻を迎えたが、夫婦仲はうまく行かず、7年後に離婚。その後すぐ駆け出し女優と同棲し、東京から仙台に帰り、後に結婚する。
亀之助が奔放な行動が出来たのは、生家の家産のお陰であったが、昭和10年代になってその家産が傾き、妻の家出もあって、死を考えて長野県諏訪湖に赴く。
しかしこれも果たすことが出来ず仙台に戻り、行き倒れているところを発見してくれた友人の世話で仙台市役所に一吏員として勤め、糊口をしのいだ。
四十歳を過ぎてからは健康がすぐれず、昭和17(1942)年12月2日、喘息と長年の無頼な生活からくる全身衰弱のため満42歳で誰にも看取られることなく淋しく逝った。
詩集『色ガラスの街』は、亀之助が画家としての活動のかたわらに書きためた詩を集めたもので、その故かこの「雨 雨」の詩には抽象画的な色彩を感じる。
雨が降る、それも激しく降る一日、部屋に閉じこもって雨音を聞きながら過ごす非現実的な感覚。
雨がガラス窓を打ちつけて、水滴となって花模様を描く。それは一日中、まるで眼鏡をかけたような…。
亀之助は、この詩において雨がガラス窓を打つ音の擬音として、平仮名や片仮名を用いず、「DORADORADO」「TI-TATATA-TA」「TI-TOTOTO-TO」とローマ字(大文字)を用いた。
ガラス窓を打つ硬質な雨音の表現として視覚的に最も効果的だ。
このように詩の中にローマ字(大文字)を使う例は北原白秋の初期の詩集『思ひ出』の中の詩によくみられる。
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GONSHAN, GONSHAN. 何処へゆく、
赤い、御墓の曼殊沙華(ヒガンバナ)
曼殊沙華、
けふも手折りに来たわいな。
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おなじみ、「曼殊沙華(ヒガンバナ)」である。
「裏の BANKO にゐる人は あれは隣の継娘」(柳河)、「古きながれのかきつばた 昼は ONGO の手にかをり」(かきつばた)などは組曲「柳河風俗詩」でよくご存じのものである。
そのように白秋の詩を見て行くと、ローマ字表記している言葉はほとんどが白秋の故郷の柳川言葉であることが分かる。
亀之助はこれら白秋の詩の視覚的にインパクトある効果を感じ取って、雨がガラス窓を打つ音をローマ字(大文字)を用いて擬音化したに違いない。
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余談であるが…
この組曲が作曲された当初、四曲目は「雨 雨」ではなく堀口大学詩による「十一月にふる雨」であった。
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十一月は うらがなし
世界を濡らし 雨がふる!

十一月に ふる雨は
あかつき来れど なお止まず!
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初冬の皮膚に ふる雨の
真実つめたい かなしさよ!
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と、この後に同じ韻律で六聯の詩句が続き、最後に
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逢引のみやび男も ぬれにけり
みやび女も ぬれそぼちけり!
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で、全十聯の詩が結ばれている。
十一月に降る冷たい雨に濡れそぼつ悲哀感の中に、堀口大学らしい洗練されたセンスの光る詩である。
多田武彦さんは、これに「ター タタ‐タタ‐ター タタ‐タタ‐ ターー」(ター=♩=約72 )という突き刺すようなリズムで進行させていく、これもまた名曲の一つであった。
しかし、大正か昭和の初期に作られた詩であるから仕方のないことだが、その詩の中に昨今では差別用語とされる語句が含まれているため、昭和57(1982)年に多田さんはこの曲を廃し、尾形亀之助の「雨 雨」に差し替えた。
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なお、技術委員長・林茂紀さんが、この「雨 雨」に関し、『組曲「雨」をめぐってのとりとめもない随想 1「雨 雨」』をアルマ・メーリングリストに投稿された。
林さんの感じ方、受け止め方のほかに、今では珍しい山田今次の詩「あめ」や京大合唱団の後輩で国文学者・深沢眞二氏の考察の紹介もあり、是非とも合わせ読んでいただきたい。
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5.雨の日に見る
第5曲目は、再び大木惇夫の詩による「雨の日に見る」である。
この詩が収められている詩集『危険信号』が出版されたのは昭和5(1930)年である。
ということは、第二詩集『秋に見る夢』の出版が大正15(1926)年であるから、この詩集は昭和初期に作られた詩を中心にまとめられているのであろう。
第1次世界大戦後の一時の好況のあと不況に陥った日本経済は、昭和2(1927)年の「昭和金融恐慌」によりさらに深刻化していた。
同年4月に神戸の大商社鈴木商店が倒産し、国策銀行の台湾銀行が休業に追い込まれていた。
この時期の惇夫は当然このような時代背景を負っている。「雨の日に見る」にもこのことがよく表れている。
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街燈はぬれてゐる、
泥靴は喘いでゐる、
風は雀をふっ飛ばしてゐる、
人間の後姿はいそいでゐる、
歌は絶へてゐる、
電線は攣ってゐる、
枯れ木はふるへてゐる、
わたしの身体は凍へてゐる、
わたしは祈りをわすれてゐる、
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これらの詩句はそうした時代の市民生活における実感であり、惇夫の孤独な心の吐露でもあったのだろう。
詩はこのような暗くて寒々しい日常生活の中に、明るく美しい朱欒をその前後に対置して、美や芸術的感動、美なるものの象徴として描こうとしているように思われる。
「冬、ほのぐらい雨の日は 朱欒が輝く、 朱欒が…… これは、眼をひらいて見る夢なのか」とうたう。
朱欒はミカン科の常緑小高木で、初夏に白い花を咲かせ、冬、黄色の実をみのらせる。直径は15センチから25センチに及ぶ。
「文旦」と同じ(特に果肉の淡黄色のもの)。わが国の伝来地は鹿児島県阿久根市という。
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6. 雨
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雨のおとが きこえる
雨がふっていたのだ。
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あのおとのように そっと世のために
はたらいていよう。
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雨があがるように しずかに死んでゆこう。
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この詩の作者八木重吉は、敬虔なキリスト教徒で、中学校の英語教師をしつつ詩を書いてぃたが、結核の診断を受け療養生活に入る。
妻とみの懸命の看病も空しく、明治31(1898)年生まれの重吉は、昭和2(1927)年、わずか29歳で妻と2人の子を残し、この世を去る。
この詩は重吉の生前に世に出ることがなく、その死後に遺稿の中から発見され、没後32年経ってから刊行された「定本八木重吉詩集」に収められている。
雨は重吉にとって神の恩寵であり、自分は神の恩寵を世の中にあまねく行きわたらせる手助けをしたい。
そして雨があがるようにそっと神の御許に行こう。病床にある重吉の深い祈りである。
この清々しく、神々しいまでに澄み渡った詩―それは重吉の魂―に付けられた多田武彦さんのメロディー…。
この曲を自分への挽歌あるいは鎮魂歌として、その死後に歌ってほしい、と願う合唱人は多くいる。
そして、なにより多田さんご自身が先にも書いたように「…、私が死ぬ瞬間にも、私がしずかに死んでゆける鎮魂歌となるであろう。」と言われる。
もはやこの名詩、名曲について多くを語る必要はない。
とにもかくにも重吉は妻とみと2人の子を残して死んだ。
夫重吉を亡くしたとき、とみはまだ22歳の若さであった。
子どもは2人いたが、いずれも短命で、長女桃子は15歳で、長男陽二は16歳で、それぞれ父と同じ病で亡くなった。
35歳にして一人取り残されたとみは、重吉がかつて療養生活を送った茅ケ崎の結核療養所・南湖院に事務員として勤めた。
ここに宿痾の結核に悩む歌人吉野秀雄が板付きの身を横たえていた。
吉野は人柄がよく、利発、聡明で、労を惜しまないとみを見ていた。
4人の子どもを残して妻に先立たれた吉野は、とみに鎌倉にある吉野の家に住み込んで4人の子の養育に当たってほしいと懇請し、とみはこれを受け入れた。
太平洋戦争も終わってしばらく経った昭和22年、43歳になっていたとみは46歳の吉野秀雄と再婚する。
昭和51年、とみは「琴はしずかに 八木重吉の妻として」を著わし、彌生書房から刊行された。
また昭和53年に「わが胸の底ひに 吉野秀雄の妻として」も刊行した。
とみは稀有の才能を持った二人の文学者に愛され、また、彼らをよく支えた。吉野もとみの思いを汲んで、重吉の詩を世に出すために尽力した。
吉野は小林秀雄の協力を得て、昭和23年に創元選書から刊行された『八木重吉詩集』(草野心平編)の出版のために動いた。
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これとは別に、昭和34年3月3日のことである。
その前年の昭和33年3月から、「尾崎喜八詩文集」(創文社刊)の刊行が始まっていて、次の配本が「詩文集」第4巻の『山の絵本』であったので、その巻頭写真を撮影するため、喜八は友人の串田孫一氏とカメラマンの三宅修氏との三人で北に八王子、南に相模平野を控える多摩丘陵の西南部にある七国峠へ撮影小旅行に出かけた。
この小旅行の山歩き、写真撮影の部分は一切省略して、いきなり三人が帰途に就く場面に飛ぶことにする。
長かった春の日もようやく暮れなずんだころ、三人は森や林でいままで閉ざされていた視界が突然開ける場所に出た。
そこは山の奥深くまで開墾された麦畑の斜面であった。
美しい山村の風景に三人は溶け込み、夕映えの空を見上げながら大戸の部落へ入った。そこに思いがけないものがあったのである。
それはとある藁葺きのどっしりした農家の生垣の前であった。
そこには夕陽のほてりでまだ温もりの残っているほぼ円形の大きな水成岩が台石の上に据えられていた。
それを串田孫一氏が目ざとく見つけ、碑文を読んで喜八を差し招いた。
そこには一編の詩が刻まれていた。八木重吉の詩「琴はしずかに」である。
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このあかるさのなかへ
ひとつの素朴な琴をおけば
秋の美しさに耐えかねて
琴はしずかに
鳴りいだすだろう。
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八木重吉の詩碑であった。そして背後の藁葺き屋根の農家は、重吉の生家であった。
残念ながら秋ならぬ春の、明るさが消えて行こうとする時刻であったが、梅の香が風に乗ってあたり一面を華やいだ気分にさせていた。
三人は思いがけない邂逅に心の高ぶりを覚えながら、暮れなずむ道を歩いて行った。宵の明星が輝き出した。
七国峠への山歩きから東京・上野毛の家に帰った尾崎喜八は、重吉の詩碑に偶然巡り合った感動が冷めやらぬ間に詩作にとりかかり、詩「春愁」が生まれた。
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春 愁
(ゆくりなく八木重吉の詩碑の立つ田舎を通って)
尾崎喜八
静かに賢く老いるということは
満ちてくつろいだ願わしい境地だ
今日しも春がはじまったという
木々の芽立ちと若草の岡のなぞえに
赤々と光たゆたう夕日のように
.
だが自分にもあった青春の
燃える愛や衝動や仕事への奮闘
その得意と蹉跌の年々に
この賢さ、この澄み晴れた成熟の
ついに間に合わなかったことが悔やまれる
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ふたたび春のはじまる時
もう梅の田舎の夕日の色や
暫しを照らす谷間の宵の明星に
遠く来た人生とおのが青春を惜しむということ
これをしもまた一つの春愁というべきであろうか
.
尾崎喜八は明治25年生まれで、重吉より5歳年長である。そして50年以上長く生きた。
重吉の生前、二人の間に交友関係はなかったが、喜八は友人の高村光太郎や草野心平を通じて詩人としての八木重吉を知っていた。
重吉の死後に出版された詩集「貧しき信徒」を読んだ喜八は、
「故人の心そのもののような此等の詩に、涙と嘆賞を同時にそそぎます。
私は遂に八木君を此世で知らずにしまった事を残念に思います。
私は八木君を生前に知っていた人々に対して、一つの羨望さえ持ちます。」と述べた。
「春愁」の詩が作られたのは、重吉の死後30年が経ってからであるが、その背景には大戸の里で思いがけずその詩碑に出会った八木重吉の短い生涯を思う心がある。
.
なお、尾崎喜八が写真撮影の山行きの折、大戸部落で邂逅した重吉の詩碑に刻まれた詩「琴はしずかに」を選んだのは、とみであった。
喜八が串田孫一氏らとともに出会った重吉の生家、藁葺き屋根の農家は、いま八木重吉記念館となっているが、その近くにある重吉の墓には長女桃子、長男陽二の墓石に並んで登美子と刻まれた墓石が立っている。
吉野秀雄はとみに先だったが、生前、重吉の墓に参って、「われのなき後ならめども妻死なば骨分けてここに埋めやりたし」と詠んだ。「自分の死後のことになるだろうが、妻が死んだらその骨を分けて、重吉の墓に埋めてやりたい」というのである。吉野のその「遺言」とも言うべき言葉は守られ、とみが亡くなると、その遺骨は分骨され、重吉の墓に埋葬された。
(完)