男声合唱組曲『樅の樹の歌』Ⅴ「樅の樹の歌」を巡って (林 茂紀)

『樅の樹の歌』Ⅴ「樅の樹」を巡って

. この詩の冒頭に、ドイツ民謡「O Tannenbaum」の歌詞がドイツ語で2行記されている。
..以前お送りした対訳で「あゝ樅の樹 あゝ樅の樹 なんて誠実なんだ 君の葉っぱは!」の歌詞である。
..その後に尾崎さんは「私はやはり自分が なおもっと充分若かったらばと思う。」と、この詩を書き始める。

..失われた若さを惜しむ心。年齢を重ねてきた我々の誰しも「確かに」と思い当たるのではないだろうか。
..だがこの詩を書いた時、喜八は何歳だったのだろう。収められている詩集『行人の歌』は1940年刊。収められている詩は1925年以降のものと記されている。
..1892年生まれだから、33歳から48歳という幅があるが、今の感覚で言えば「それでも充分若いではないか」と言いたくなる。
..この詩で喜八は、自分がもっと若ければ「新しい粉雪に被われた広い、深い、樅の林を、一日じゅう、一人で」「滑るだろう」と記す。
..我がアルマにはこの時の喜八の年齢を遥かに超えてなお、一冬列島を股にかけて滑っている方もおられるのだ。

..だが、この一文を記し始めた動機はここにあるのではなかった。多田さんの作曲についてであった。

.. 54から69小節に及ぶT1・T2のオブリガートである。
..この音の動きは、まさにスキーで伸びやかにターンを繰り返しながら滑り降りてくる感覚を呼び起こす。

..多田さんがスキーを愛好されたかどうか寡聞にして知らないが、粉雪が板裏でギュッギュッと鳴る感触とともに、美しいシュプールまでが見えてくるようだ。

..スキー板も喜八の時代には金属のエッジなどは付いてなかったはず。
..そのスキー板を操って「私はやがて雪と夕日との高原の林を 遥か人里のほうへ滑って来るだろう。・・・」と懐かしさに溢れるように記すのだ。
..多田さんは、その心(B1B2による単旋律の歌)にシュプール(T1T2「Woo―」)を添えている。
..ここまで記し夕餉の支度にとりかかったのだったが、やっていると「何十年経ってもそんな読みしかしてもらえないとは、やれやれ・・・」という嘆息が耳元で聞こえてきた。喜八さんか?

..改めて『行人の歌』が出版された1940年という時代を想起した。すると、この詩は全く違った様相をもって迫ってくるようだった。
..今あの高原地方でスキーができないのは、もう若くはないからと記しているようだが、果たしてそうか。

..時代がそれをもはやそれを許さないようになっていたからではないのか。(この詩が書かれた年を知りたいと切に思う。)
..ちなみに1933年に国際連盟を脱退した日本は1936年にヒトラーのドイツと防共協定を結び(翌年にはムッソリーニのイタリアも加え)、1937年には日中戦争、国民精神総動員運動(滅私奉公)開始、1939年には第二次世界大戦に応じるように国民総動員法と隣組制度決定という具合に、国際的にも国内的にも戦時体制になだれ込もうとしているさなかだった。
..そんな時代に喜八は「一日じゅう、一人で」スキーを楽しむことに憧れ「孤独の味を知っているという事は、たしかに美しく、男らしい」と記した。
..それまで普通のおっさん、おばさんだった人が「銃後」を守るべく互いに監視し合うことが強制され・熱狂して(1932年「国防婦人会」1940年「隣組」制度化)いた時代である。
..「孤独の味」を記しながら、喜八がその都度「だが、仲間が厭だというのではない」「仲間への愛や協同の念に燃えて」と書き添えているのは、ヘタすると指弾されかねないことへの懸念がそうさせていたのかも知れない。

..が、これは例によって独りよがり、かつ見当外れの深読みか。妄想もここまでにしよう、ヘタすると包丁で手を切るぞ。調理に集中することにした。             (2018年5月27日)

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『樅の樹の歌』Ⅴ「樅の樹の歌」を巡って 2
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..早朝まだはっきりとは目覚めていない頭の中で声がした。
『行人の歌』は、収録詩のすべてが治安維持法に覆われた時代に書かれたものだった、と。
..どきりとした。普通選挙法と抱き合わせて、その法制定がなされたのは1925年。更に最高死刑と改悪されたのが1929年だった。
..その時果敢に反対の論陣を張った山本宣治(京都出身、旧制神戸中病気中退、同志社・三高・東大・京大院を経て卒後理学部講師に。

..性教育・産児制限運動を展開、24年京大追放。28年第一回普通選挙で労農党より京都で立候補、当選)は、同年右翼に刺殺された。
..また作家小林多喜二が特高警察によって拷問虐殺されたのは1933年、この改悪治安維持法下においてであり、言論・表現の自由はこの法と特高により徹底的に圧殺されていく。
..やがて翼賛体制にすべてが(喜八自身も含め)絡め取られていく前夜の時代に『行人の歌』は書かれ発刊されたのであった。
。。その末尾には以下の詩が載せられていてドキリとする。戦死者になりかわっての激しい異議申し立てを喜八は行なっていた。

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…..新戦場
…われわれはもう何者でもないだろう、

…他人にも、かつてあった自分にも。
..あの死の瞬間に、

…できるものならもう一度この足で立ち上って、

…どこか知らない水と森との清涼な未開の国で、

…全く新しく生き直したいと思うほど

…この世がなつかしく美しく見えたのだが、

…別の真実が  仰ぎ見させる白い光で現れたのだが……
…もう取り返しのつかない砕かれた頭、

…穴のあいた、みじめな胸。
…これがかつてそれぞれの  労苦の母の最愛のものだった。
…たましいの奥底では、

…絶えず善くなろうと思い、

…人らしく、正しく、美しく生きようと願って

…その準備もしていたのだが……
…熱い、大きなそよかぜに吹かれて

…ようやく茂る夏草に埋もれる身が、

…死んだ後までも憎んだり呪ったりすることを、

…生きている他人から期待されるのは厭だ。
…われわれを護国の鬼などと云うのはやめてくれ。

…本当はすでに互いに忘れていながら、

…奉仕し、奉仕されたと思おうとするのは嘘だ。

…われわれはもう君たちの寄託からは自由だ。

…異郷の夏の草よりも風よりも遠く、

…もう金輪際

…君たちとは無関係だ。

..上掲詩は山室静によると「埋れていたのを串田孫一が発掘したという」(日本の詩歌17)。

..が、これ以上の詮索は林の手に余る。
..

「樅の樹の歌」に戻ろう。
喜八とスキーとの関わりを『行人の歌』に探したら、次のような二篇の詩に出会った。

…..シュナイダー
…オーストリアの山奥から呼び出されてまっすぐに、

… まだ見た事もない極東の日本へやって来た。

… ナラの、キョートの、ニッコーのと、

…弗(ドル)臭いアメリカ観光客の旅ではない。

… 剛健なアールベルクのスキー術を

…わかい日本の学生大衆に教えに来たのだ。
だがシュナイダーでもやっぱり人間だ、

… 異国の雪の高原の夜はそぞろ寂しく、

… ぽつねんとともる豆ランプを前に、

… サント・アントンの炉辺の事がしきりに想われて、

… シガレット・ケイスへ貼った愛児の写真をじっと眺めた。

… やがてぶらりと合宿へ姿を現して

…賑やかな学生の仲間へ加わったが、

… ふと頭の上を見上げた拍子に、

…「天井から空が見えますね」と、 爽やかなドイツ語が口をついた。
…だがひとたび山々の処女雪が真赤な朝日に照りはえれば、

…ゆうべの憂鬱は跡方もなくけしとんでしまい、

…さばさばと生れ変ったシーロイフファー・シュナイダーが (*後註)

…ああ、滑るよ、滑るよ、

… 飛ぶよ、飛ぶよ!

…ゲレンデ狭し、世界も狭しと髪ふりみだし、

… 銀盤にえがき、青空を引摑んで、

… 飛鳥のように舞い上り、舞いくだる!

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…..シュプール
…遠い目的地への到達の道で、

… 現実のえがく逞しい線が、 …

…たえず大きく、生気にみちて彎曲する。

…時空をとおして熱烈な眼が投げる

… 理想の最大傾斜線を

… ひろびろと右に左に巻きながら、

… 見まもりながら、

… 羊腸をえがいてそれは進む。

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…その一廻転を完成する各瞬間の運動を、

… 仔細に吟味解剖するとき、

… 必然の理法へのなんという賢い服従を、

… 惨憺として現実をく複雑精緻な経営の

… なんという光景を、

… なんという切磋琢磨の痕を見ることだろう!

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…たそがれ、霧のたちこめる

…幽暗な、平和な樅の森林。

…そのむこうに人類窮極の

…一大炉辺を築くことは知っている。

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…しかし相次いで前途をす無数の難関。

…右へのの惰性をおさえ、

…左への踏みはずしを警戒しながら、

…人類の壮烈な推進がえがく

…この制動回転の鑿々の痕の美しさ!

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* *

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..「樅の樹の歌」は上記「シュプール」の3篇後に置かれている。

..これらの詩を読むだけで喜八が如何にスキーに憧れ、学び、愛好していたかが分かる。
(註)詩の中に登場する「シュナイダー」は、「近代アルペンスキーの父」として知られるオーストリア人指導者で1930年3月来日、菅平高原で初の雪上スキー指導をしたハンネス・シュナイダーのことと思われる。

..初心者をボーゲンからシュテムターンを介してパラレルターンへと導く世界初の体系的スキー指導法(アールベルクテクニック)を考案し広めた。

..喜八は彼とどのような関わりを持っていたのだろう。菅平にはシュナイダー記念塔がある。

..林なども末端でその恩恵を受けていると初めて知った次第。

..ただ、ハンネスが何故シーロイフファーとされているのか、それが喜八の創作なのか『行人の歌』を手元に持たない林が引用した詩はネットを通じてであり(含誤記)その表現の当否について判断はできない。……(2018年5月28日)
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『樅の樹の歌』Ⅴ「樅の樹の歌」を巡って 2への追記     ……….林 茂紀
. 疑念を残したまま皆さんにお送りした<2>(5月28日)でしたが、「尾崎喜八文学館」(堀 隆雄氏による)を知り訪ねてみると、追記・訂正すべき点の幾つかあることに気付かされた。それを以下に記していきたい。

..「新戦場」について
..今では『行人の歌』の末尾に掲載されているが、1940年に発行された(500部)時は無かった。
1959年に『尾崎喜八詩文集2』が発行された時、同時代の作品として『行人の歌』に追加された。
..<2>の中で<上掲詩は山室静によると「埋れていたのを串田孫一が発掘したという」(日本の詩歌17)>と記したが、それは前記堀氏の以下の記述<特に「新戦場」は反戦思想が当局の忌諱に触れ、詩華集「南有集」が発売禁止になったという歴史を持っている。

..串田孫一氏によって見出された。>と符合する。
..串田さんは、喜八の「山の絵本」岩波文庫版(1993年刊)に解説を書いている。

..1915年に生まれ、喜八との交友は1930か31年頃から喜八の亡くなる1974年まで続いたとのこと。

..以前「春愁」を巡る増田さんの文章の中で紹介されていたが、八木重吉の詩碑を偶然見ることになった旅に同行していたのも、この串田さんだった。
..ちなみに彼の随筆には「雑木林のモーツァルト」という一文があり、1993年刊の随想集の書名にもしているのは、喜八の「田舎のモーツァルト」を想起してのことかと、つい連想している。
..その彼が『行人の歌』に「新戦場」他の詩を後年収録したのは、敬愛する喜八に対する戦争協力者の汚名を、少しでもはらさんとする意図が働いていたのではと推察する。

「シュナイダー」について
1行目「オーストリア」は原詩では「墺太利」。
..「シーロロイファー」は「シーロイファー」の誤記か。末尾「舞いくだる!」も「舞い下る!」の誤記であったようです。

..(なお<2>で引用したのは、満嶋明氏による「詩人 尾崎喜八」のサイトからです)

<追記の追記>
..「樅の樹の歌」の中には次の詩句がある。
――仲間への愛や協同の念に燃えて、それでいて孤独の味を知っているという事は、たしかに美しく、男らしい。
..へそ曲がりの林は、前半に頷きつつも「たしかに美しく、男らしい」という自己評価には共感しがたいものを感じていた。

..既に「男らしさ=死を恐れぬ皇軍=美」と喧伝される時代になっていたとしたら、喜八の表現は一つの価値転換ないし異議表明でもあり得たのかも知れないが・・・。
..そんなある日、新聞に掲載された下重暁子さん(1936年-)の「語り」に出会った。
――孤独は、よくないことのようにいわれますが本当にそうなのでしょうか。

..孤独を恐れて人に合わせてばかりいると、寂しさは増すばかりです。
..寂しさは一時の感情で、孤独とは別のものです。

..孤独は寂しさを突き抜けた一人で生きていく覚悟のようなものだと思います。
..だれしも一人で生まれ一人で死んでいきます。

..そこから目をそむけず、孤独を味わい、孤独のなかで自分を知ることが大事ではないか(中略)
..孤独っていうのは、一人しかない自分を慈しむこと、自分を掘り下げ知ることです。
..孤独をかみしめ、心の声に耳を傾けることで、自分のホンネを知ることができる。

..自分に向き合って考えるなかで、人は成長するのではないでしょうか。(新著『極上の孤独』をめぐって)

..「孤独を味わうこと」を肯定する点で相通じつつ、喜八の自己評価を遥かに超え、風通しのいい広い世界へと我々を誘う思想の展開。

..戦後73年の歳月が、これを可能にしたのだろうか。
..喜八はどんな「自分の未来」にほほえみ、歌ったのだろう。

..この「樅の樹の歌O Tannenbaum」を。…….(2018年7月14日)