男声合唱組曲「優しき歌」あれこれ       


「優しき歌」(多田武彦・作曲)あれこれ 1 林 茂紀
 静養中の増田さんから「優しき歌」をめぐって、丁寧かつ力のこもった文書が二篇、我々のもとに届けられた。
 それを熟読すればそれで充分とも思えたが、歌っていると様々な「気付き」に出会うことがあり、つい記したくなってしまう。

 まず、多田さんが「みまかれる美しきひとに」をなぜ終曲に持ってきたかについて。
 多田さんが立命館大学メンネルコールから、卒業記念に後輩たちへと委嘱を受けたのは、遅くとも一九七一年三月。
 その時点で、道造の詩風に「学生時代から心酔しきっていた」という多田さんが座右に置かれていた詩集は、一体どれだろうか?
  1.『詩集優しき歌』(一九四七年三月十日初版発行・角川書店)
  2.『立原道造全集』(全三巻 一九五〇~五一年・角川書店)
  3.『立原道造全集』(全五巻 一九五七~五九年・角川書店)
  4.『立原道造全集』(全六巻 一九七一~七三年・角川書店)
 一九三〇年十一月生まれの多田さんが学生時代に手に入れられたとしたら、1か2と考えるのが順当だろう。
七十一年三月時点では3の可能性もある。
 もし1なら、「優しき歌」(序の歌と十篇の詩)の次に、Ⅱとして、その最初に「みまかれる美しきひとに」が掲載されている(ちなみに、その次が我々も歌った「甘たるく感傷的な歌」)。
 いわば、すぐ目にとまる位置に載っていたのである。
 これが「拾遺詩集」として「優しき歌」とは遠い位置に編集されることになった後の「全集」との大きな違いである。
 多田さんは、あえて有名な「Ⅹ 夢みたものは・・・・」を採らずに、「みまかれる美しきひとに」を終曲に持ってこられた。
 そこには明確な意図があったに違いない。それはいったい何だろう・・・。
 上床さんは「もしかしたら多田さんの間違いだったのでは?とも思った」と話されていたが、多田さん座右の書が1なら、そう不自然ではないとも思えてくる。
 明日の練習に向けて歌っていて、はたと気付いたことがあった。
 それは第一曲目との符合である。キーワードは「月の光」「月のひかり」である。
 一曲目「爽やかな五月に」は、こう始まる。
  ―― 月の光のこぼれるやうに おまえの頬に
 五曲目「みまかれる美しきひとに」には、次の詩行がある。
  ―― 傷ついた月のひかりといっしょに これは僕の通夜だ
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 多田さんが「優しき歌」で意図された「モノトーン」とは、このように月の光に包まれてできる世界だったのではないか。
 一曲目の歌い出しは、林には「不思議だなあ」と思われる。
 「つきのひかりの こぼれるように」と、1拍目に言葉の頭を持ってきても何ら不自然ではないのに(また、そう歌いがちなのでは?)多田さんは語頭を、あえて小節のラスト、 アウフタクトに持ってきている。
 4拍子のビート感と言葉が半拍ずつずれるのだ。そして「語るように」と指示されている。
 繊細な技が、のっけから求められているのだと思う。
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 それから、五の「傷ついた月のひかりといっしょに」を歌う時、胸が打ち震えるような想いが湧き動く。
 それは後で出てくる「林檎みどりに結ぶ樹の下に」の胸を打つテーマが、ここに姿を現していたことによるのだった。
 そしてそれは既にB2「この悲哀に灯をいれて」で予兆され、それを受け継いでいたのだった。
 多田さんは、このテーマをこのように周到に(大切に)準備し育て「林檎みどりに・・・」へと結実されたのだ。
 「これは僕の通夜だ」も考えてみれば不思議な詩句だ。
 普通は決してこうは言わないだろう。が、今回はここまで。
              (二〇一九、九・一〇)
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「優しき歌」(多田武彦・作曲)あれこれ 2 林 茂紀

 この組曲の全体像を、道造の詩を中心に増田さんは描いてくださった。
 その広い手のひらの上で、気付いたことを思うままに記させていただこうと思い立った、その2である。
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《爽やかな五月に》
 この詩は、はるか十代から二十代初めの自分(それは今も居る?)を思い起こさせて切ないものが動く。
 そういう方は、けっこう多いのではないだろうか。
 この詩には、思いを寄せる女性のそばで、星や花や小鳥への愛を何度となく語りはしても、当の女性への愛をついに一度もはっきりと語ることをしなかった(できなかった)
 「私」と、その心に映った女性の心模様が描かれている。
 その女性に憧れつつ、はっきりとは言葉にできないシャイな若者。
 その心をはかりがたい(少なくとももどかしいだろう)まま、時に感情を溢れさせずにいられない女性。
 それを前にしても、自らの心の置きどころを決められない若者。
 そこには飛び越えることのできない、ある逡巡があるのだろうと感じさせずにおかない。
 そして、それを飛び越えない限り、その「愛」が成就されることはないだろう。
 それを予感させるⅠの詩である。

 そして多田さんは、こうした「私」の心の動きを、1で記したように曲の出だしから繊細かつ情感豊かな歌にされている。
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 (こうして記してくると、たとえばシューベルトの「美しき水車小屋の娘」や、シューマンの「詩人の恋」へと思いは誘われていく。
 が、後者の詩人は、「うるわしい五月」にちゃんと相手に自分の想いを打ち明けていた。)
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《落葉林で》
 この歌をはじめて歌った時「あれっ!」と思うことがあった。
 それは、7小節から10小節まで続くT系のオブリガードの旋律である。
 「マーラーだ!」と思った。「さすらう若人の歌」(と交響曲1番)。
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 それは第五十一回定演に向けて鮎川さんの指揮、福島さんのピアノで歌っていた曲のラスト四曲目だったはず。
 楽譜を探し出して調べてみた。
 あった!「僕は静かな夜に、暗い荒野を越えて旅立った」という、失恋後の場面に、その旋律と同じ歌が。
 多田さんはその旋律の下で、B1に「私は 身を凭(もた)せてゐる/おまへは だまつて 背を向けてゐる」と歌わせている。
 一緒にいる二人の間には、越え難いすれ違いが重く横 たわっているようだ。
 多田さんはこれを二人の別れを予感させる詩行としてとらえ、明らかに意図してマーラーのこの旋律を重ねられたのではないだろうか。
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 「私らに 一日が / はてしなく 長かったやうに」
 一緒にいた一日が、そのように長く感じられるのは、どういう過ごし方のときだろうと思い巡らす。
 それが心通い合い、楽しく喜びに満ちたものだったなら、「時よ止まれ」と言いたくなるほどにも短く感じられることだろう。
 ところがこの詩では、全くその逆だ。
 一緒にいることがつらい、それなのにこの一日をずっと一緒に過ごさねばならなかった、とでも言っているかのようだ。
 皆さんは、どう読まれるだろうか?
 道造は最後に問いかける。彼の親しい「雲」「鳥」「花」たちに・・・。
 何を問いたかったのだろうか?
 問いを残したまま、この稿を終え、練習に向かう。  (同九月十一日)
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「優しき歌」(多田武彦・作曲)あれこれ 3 林 茂紀
 ずっと気になっていたことがある。それは第三曲「さびしき野辺」について。
 多田さんは、どうしてあんなふうにスタッカートを多用したのかということ。
 団員の中に「歌いにくい」とか「あれさえなければ」など、否定的に傾く感想をつぶやかれる声があったからである。
 自分でもそう感じていた。
 だが同時に、この曲がなければ組曲として単調になるだろうな、とも思っていた。
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  いま だれかが 私に
  花の名を ささやいて行つた
  私の耳に 風が それを告げた
  追憶の日のやうに
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 誰とは特定できない人がささやいていった花の名、その名は記されない。
 道造は、かつてアルマで初演した「甘たるく感傷的な歌」(昭和十一年十月)の第一連においては、花の名を明示している。
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  その日は 明るい野の花であった
  まつむし草 桔梗 ぎぼうしゆ をみなへしと
  名を呼びながら摘んでいた
  私たちの大きな腕の輪に  (註)ギボウシ(擬宝珠)のこと
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 ここでは四種の花の名がリズミカルにうたわれ、読む者の中に具体的な色と形をもって魅力的な像を結ぶ。
 だが「さびしき野辺」に花の名はない。それに、私の耳に告げたのは誰々ではなく「風」なのだ。
 ここで吹いている風は、そよ風だろう。
 そよ風は、草の葉も花も、一瞬ゆるがせて過ぎ去っていく。
 その動きはかすかであり、まるで風に軽く撫でられたかのよう。
 そのかすかさは二連にも受け継がれる。
 多田さんがスタッカートを付けたところは、まさにそよ風のタッチで歌ってと我々に告げているように思われてならない。
 そして、そのことに気付いた時、この歌のイメージが魅力あるものに変わった。
 スタッカートが付けられている詩句を次に太字で表記してみよう。
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  いま だれかが 私に
  花の名を ささやいて行つた
  私の耳に 風が それを
告げた
  追憶の日のやうに
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  いま だれかが しづかに
  身をおこす 私のそばに
  もつれ飛ぶ ちひさい蝶らに

  手をさしのべるやうに
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  ああ しかし と
  なぜ私は いふのだらう
  そのひとは だれでもいい と
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  いま だれかが とほく
  私の名を 呼んでゐる・・・・ああ しかし
  私は答へない おまえ だれでもないひとに
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 それらの詩句以外はレガートで。
 これをちゃんと歌い分けられるかどうかに成否はかかっているのではないだろうか。
            (十月二十六日)
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「優しき歌」(多田武彦・作曲)あれこれ 4 林 茂紀
 やっと体調が回復したある日、机上を片付けていたら一冊の本が姿を現した。
 「立原道造・愛の手紙」(小川和佑著・毎日新聞社 昭和五十三年五月刊)何と、上床さんから以前手渡されたものだった。
 改めて最初から読み直すと、道造の次の手紙に眼を吸い寄せられずにおれなかった。
 第四曲「また落葉林で」に関わるものとして。
          *
  けふは 夏の日のをはり。
  もう 秋の日のはじめ。
  僕はボオドレエルの「秋の唄」の最後の行を愛する。
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 だれのために? 昨日は夏だった。今、秋だ
 不思議なひびきが 出発のやうに鳴りわたる。
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 蜂蜜のやうな、澄んだ、おだやかな陽ざしのなかに 子供らは樹に攀じる。
 鳶が輪を描いてゐる高い空。そこには 砂のやうな巻雲が さらさらとながれてゐる。
 地の上にも、光と かげとが 美しい。花はしづかに溢れてゐる。
 けふ は 夏の日のをはり。もう秋の日のはじめ。
 大きな 大きな 身ぶりを描いて、不思議なひびきが空を過ぎる。
 しかし、僕らが 明日を知らないこと! ただ 出発 だ。どこへ?
 だれのために?(中略)
 僕に信じられないくらゐの 不思議な 美しい夏。
 それは、もうふたたびは くりかへしも出来なければ 語ることも出来ないだらう。
 ただ出発だ! どこへ? おまへ へ! 一層 ふかく「僕ら」へ!
  (以下、略 昭和十三年九月四日 水戸部アサイ宛 軽井沢より)
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 この本には、道造自筆の手紙のコピーが載せられている。
 それをできるだけ忠実に(字間など)写そうとしたのだが・・・。
          *
 ちなみに過日T2の藤原さんにいただいた資料に、信濃追分の旅館油屋でその夏の終りを道造と共に過ごした中村真一郎の追憶文があった。
 道造はボードレールの「悪の華」(仏語版)を手に取ると、開いたページの詩を気紛れな調子で日本語に直し、声に出していったという。
 そこにはこう記されていた。
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  左様なら、余りにも短かかった、私らの夏の強い光り!
  それは本当に、詩人にとってこの世の最後の夏だった。
  誰のために?――いつのまにもう秋、
  昨日は夏だった。澄んだ空に
  大きな響きが鳴り渡る 出発のように
     (中略)
 画帖の『優しき歌』は、そんな散歩の間で、何度も手を入れられ改められた。
 例えば『また落葉林で』には第一連と第三連とに、それ等のボードレールの句が、そっくりそのまま投げ入れられている。
   (後略)        (『午前』5号 昭和二十一年十一月)
          *
 第四曲を歌っていると、「別離」を歌っていながら、何か晴れ晴れとした世界へと心が広がっていくように多田さんが作曲されていると感じずにはおれなかった。
 特に、ソロと合唱でくり返して歌われる次の詩行の歌、憧れと希望をすら宿したすばらしい歌として。
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  澄んだ空に 大きなひびきが
  鳴りわたる 出発のやうに
  私は雲を見る 私はとほい山脈を見る
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 この詩は、これに続く次の三行で締めくくられている。
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  おまへは雲を見る おまへはとほい山脈を見る
  しかしすでに 離れはじめた ふたつの眼ざし・・・・
  かへって来て みたす日は いつかへり来る?
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 多田さんは、この第四連の2・3行をソロで歌わせ、合唱にはHmを当てている。
 特に3行に当てたHmはアクセント付きのシンコペーションで、内心の切迫感を出そうとされているようだ。
 そして、その後に第三連を今度は四部合唱で歌わせるのだ。
 ソロがmfだったのに対し、合唱はmpで始まり、ffでたっぷりと歌い切る。
 不安を抱えつつ、眼を再び空に雲に山脈に向け、出発しようとする心のように。
 このリフレーンは多田さんがよく使われる手法とはいえ、やはり見事というほかない。
 が、多田さんが作曲された時、この手紙(アサイ宛、第四通)はまだ発表されていなかった。
 それ故、この詩の背景にこの手紙があると意識されることはなかったはず。
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 この手紙を書いた時、道造は二十四歳。同じ石本建築事務所に事務員として勤めていたアサイ嬢は十九歳だった。
  ――ただ出発だ! どこへ? おまへ へ! 一層 ふかく「僕ら」へ!
  これは確信に満ちた恋文として受け取るほかないだろう。
  しかし、現実の生活では「優しき歌」の一応の編纂を終え、九月六日にはその中の五篇(註)を渡すべく静養中の軽井沢から一旦東京に戻り
  (大宮でアサイ嬢の出迎えを受け) 
  その数日後には独り遠い盛岡へと旅立つのである。
  途中で山形や石巻に立ち寄り、知人に会いつつ、十九日盛岡着。
  (註:この五篇とは「爽やかな五月に」「落葉林で」「さびしき野辺」「夢のあと」「また落葉林で」だった!)
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 盛岡行きについて、著者小川和佑氏は次のように記している。
 ――愛への逡巡と懐疑を経て、遂に愛の浄福に至るという『優しき歌』の主題は、そのまま、立原の昭和十三年春から夏にかけての心境と一致するが、(中略)その再生した新しい愛、その愛の浄福を全きものにするためには、立原には二つの課題を果たさねばならなかった。
 そのひとつは、自己の文学の変革であり、新しい創造の確立であった。
 そのためには、彼の信濃の風土を捨てることでの北方への旅立ちがあった。
 (中略)
 この旅行のもうひとつの重要な意味は、堀辰雄の立原追悼の一文「木の十字架」の一節にあるごとく「恋しつつ、しかも恋人から別離して、それに身を震はせつつ堪へる」ことで、この愛が真実としていかに深いかを自己検証することにあった。
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  そしていま おまへは 告げてよこす
  私らは別離に耐へることが出来る と
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 ここを読むと、相手から別れを告げられているように、ぼくなどはまず受け止めてしまいがちだった。
 だが一方で「私らは別離に耐へることが出来る」とは立原自身の決意のようにも受け取れ、釈然としない戸惑いを引きずっていた。
 何も理詰めで詩を解釈する必要などないし、詩はそれ自体で自立している存在だ。
 ましてそれを私小説的に読み取ろうとするのは愚の骨頂だろう。だが、ここではあえて先の手紙と関わらせて読んでみたいと思ってしまう。
 そして、前掲の手紙の三日前に出された次の手紙を見過ごしていたことに気付いたのだった。
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(アサイ宛、第三通)
   秋が来た。
  僕は もっと北へ もっと孤独に行かう。
  おまえの愛をより深く信じるために。
  僕は旅立たう。たつたひとりで!(中略)
  僕は こころのふるへなしには、おまえに告げることが出来ない。
  僕の漂泊のたうたう最后の意味を。

  僕には ひとつの魂が課せられてゐる。
 どこか 無限の、とほくへ行かねばならない魂が、愛する者にすら別離を告げて、そして それに耐へて。
 だが、その魂は決して 愛する者を裏切ることには耐へない。
 別離が一層に大きな愛だといふこと、そして 僕の漂泊の意味。
 おまへにもまた、これに耐へよと僕はいふ。僕たちの愛が、いま ひとつの大きな別離であるゆえに。
 秋のつめたい風の吹く空間で、僕たちは あの可憐な秋の草花たちあの ワレモコウや 水引や ヲミナヘシのほとりで、なぜ それを告げなかつたか。
 僕たちの あの美しかつた午前に、ただ その別離をささへてゐる郷愁や憧憬とをだけしか、つひに語り得なかつたか。
 しかし、おまへは 僕のここにいふ別離を 決して僕たちのカタストロフィーなどとかんがへる愚かさをしてはならない。
 なぜならばただ別離が いまは大きな愛の形式、そして僕がおまへを生かし、おまへが僕を生かす愛の方法であるゆゑに、そして それに耐へることで僕たちは高められ 強くせら れるゆゑに――。
 僕たちの愛を いまは嘗てよりも、未来よりも、いちばんに強く信じなければならない日なのだ。
      (以下、略 昭和十三年九月一日 昭和四十九年小川氏により公開)
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 ここで道造は、アサイ嬢に対し口に出しては言い得なかった「別離」について、切迫した口調で懸命に語っている。
 今の二人にとって別離こそが二人を生かす愛の形であり方法なのだ、別離に耐えることによって二人はより高められるのだと。
 アサイ嬢は、道造のこのような一方的とも受け取れる考え・宣告を受け容れ「耐えられる」と返したのだろう。
 そして、それを受けてこそ「また落葉林で」の次の詩行は成り得たのであろう。
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  そしていま おまへは 告げてよこす
  私らは別離に耐へることが出来る と
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 それに続く第三連は、愛する人の同意を得て、新たな世界へ旅立とうとする憧れ・希望が心に広がる歌だった。
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  澄んだ空に 大きなひびきが
  鳴りわたる 出発のやうに
  私は雲を見る 私はとほい山脈を見る
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ボードレールに触発された詩句。しかし、詩はそこで終わらない。
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  おまへは雲を見る おまへはとほい山脈を見る
  しかしすでに 離れはじめた ふたつの眼差し・・・・
  かへって来て みたす日は いつかへり来る?
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 同じものを見ていたはずの愛する人の眼が、すでに別のものに向けられつつあるのを感じながら、互いの眼の内が互いの喜びで満たされる時は果たしていつやって来るかと、不安な心情が吐露されて終わる。
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 「現実生活がフィクションに反映されるというのは、驚くべきことではありません。
 しかしフィクションのなかで書かれた事柄が、そっくりそのまま現実化するということはなくとも、いずれ作家が自身の家族や社会に対して抱くであろう不安を先取りして、具体的に、あるいはおぼろげに示すということもあると思うのです。
 つまり文学テクストが将来を予言するということです。」
   (小野正嗣・大江健三郎「燃えあがる緑の木」100分de名著 より)
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 ここに記されていることが道造の詩と現実生活との間にも起こっていたと言えるのではないだろうか。
 道造は盛岡への出発を計画していた時、すでに健康に不安を抱かざるを得ない状態だった。
 記録によると、昭和十二年十月発熱。肋膜炎との診断、安静を命じられる。
 昭和十三年一月、風邪で病臥。四月、水戸部アサイを愛するようになるも、六月頃には病気は重くなり、八月には肺尖カタルと診断、安静を命じられる。
(アサイ嬢に宛てた手紙は、この八月一〇日に始まっている。*後註)
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 こういう病状の下で、突き動かされるように北へ旅立とうとしていたのである。
 彼は無謀とも思える旅を通じて身体の健康を回復するという願望も抱いていたのだろうか。
 しかし盛岡滞在は抱いた夢のようにはならず、十月下旬帰京。
 だが彼は十一月下旬から更に奈良、京都から山陰線に乗り松江を経て九州に渡り、福岡から長崎に至る新たな長旅に出る。
 (アサイ嬢には、この旅先から四通の手紙を送っている。)
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 道造は長崎に着いた二日後、十二月六日に寄宿先の医院で喀血。十四日帰京し療養所に入る。
 アサイ嬢はそこで献身的に介護にあたる。
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「かへって来て みたす日は いつかへり来る?」
 それは療養所での日々の中に実現されたと言っていいだろうか。
 道造が亡くなるのは、それから三ヶ月半後の昭和十四年三月二十九日未明だった。
     (十月二十二日了、十一月一日推敲)
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(*後註)先に引用した中村真一郎の文章には、道造と水戸部アサイそして「優しき歌」をめぐって記された次のような箇所があった。
多少長いが一部省きつつ紹介したい。
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 詩人は孤独の中でいかに自由にその夢を織るとしても、現実の中に生きることを促されるかぎり、その現実に揺り動かされるのを避けられない。
 『鮎の歌』が示しているように、詩人は一人の少女を愛する。
 然し夢の中に生きる人の常として、その愛人の中に、自分の夢みる女、詩人にとっては本当の女、エリーザベトを見ている。
 相手の少女は生きた人間としてでなく、その夢の触発体としてのみ詩人に愛されている。
 やがて少女はそれに気付く。
 少女は人間として、詩人のエリーザベトでなく、鮎であることを宣言する。
 そして詩人の心を打砕いたまま去って行く。(中略)
 「僕はいつも別離をだけ体験し、廃墟だけを所有して来た。」(書簡)
 そうした人生の経験を前にして、詩人は傲然としてそうした現実を否定するか、己れの夢を現実に順応させるか、道は二つしかない。・・
 彼は寧ろ人生の中に歩み入ろうとした。
 そしてその彼のために恐らく案内者ベアトリーチェの役割を果たしたのは、可憐なA・M嬢だった。
 今度の少女は、夢の対象ではなく、初めから生きている一人の女性だった。
 詩人は村暮しの間じゅう、若い私に向って、夜も昼も飽きることなく、その人について、その出会、その無数の少事件、その無限の心理的絡り、その共にする生の将来への希望、を語り続け、机の上に拡げたまま置いてある長い紙に、毎日日課のようにして手紙を書き続けた。そんな日常の中から、『優しき歌』は生れつつあった。(後略)
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「優しき歌」(多田武彦・作曲)あれこれ 5 林 茂紀
 この題名で「4」の第一稿を記し終えたのが昨年の十月二十二日だったのだから、それからちょうど一年経ったことになる。
 その時にはまさか新型コロナウイルス感染拡大のために定演を延期することになろうとは思ってもいなかった。
 そして「4」を記したことで十分だとの思いもあって、終曲については敢えて書き記すことをしなかった。
 だがそれから一年経ち、延期された定演を一か月後に望むいま、再び5に向かおうとしている。
 それは個人的なことも含め、この歌「みまかれる美しきひとに」をめぐって記しておきたいことに遭遇したことによる。
 「1」 でぼくは「爽やかな五月に」との符号についてこう記した。
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 キーワードは「月の光」「月のひかり」である。一曲目「爽やかな五月に」は、こう始まる。
 ―― 月の光のこぼれるやうに おまえの頬に
 五曲目「みまかれる美しきひとに」には、次の詩行がある。
 ―― 傷ついた月のひかりといっしょに これは僕の通夜だ
 多田さんが「優しき歌」で意図された「モノトーン」とは、このように月の光に包まれてできる世界だったのではないか。
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 今回はそれに加えて「薔薇」をあげたい。
 一曲目では「はじめての薔薇が ひらくやうに」と、「おまへの頬に」うかんだ「笑ひ」を表現するのに、実にみずみずしい。それに対して・・・
 五曲目では「うちしほれた乏しい薔薇をささげ あなたのために」と、
 まるで死の象徴として薔薇をつかっているように思われる。
 多田さんは終曲としてこの詩を選んだ際、この一との対照を、はっきりと意識されていたに違いないと思われる。
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 それから昨年の九月には次のようにも記している。
・・五の「傷ついた月のひかりといっしょに」を歌う時、胸が打ち震えるような想いが湧き動く。
  それは後で出てくる「林檎みどりに結ぶ樹の下に」の胸を打つテーマが、ここに姿を現していたことによるのだった。
  そしてそれは既にB2「この悲哀に灯をいれて」で予兆され、それを受け継いでいたのだった。
  多田さんは、このテーマをこのように周到に(大切に)準備し育て「林檎みどりに・・・」へと結実されたのだ。・・・
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 六月のトライアル練習のとき、この曲も歌った。ソロを歌わせていただいた時のことだった。
 「・・・おもかげは」にさしかかったとき不意に、亡くなって間もない義母の面影があれこれと一瞬のうちに去来し、ぐっと胸にこみ上げて声が打ち震えた。
 必死にたてなおし歌い通したのだったが、ここにはこんな「慟哭」ともいえる感情が内包されていたのかと思わずにはいられなかった。
 そしてまた練習再開へ向けての九月の練習で歌わせていただいた時は自分の母が他界してちょうどひと月のことだった。
 全く個人的なことであれ、こうしてぼくは、このソロを歌うことで二人の母を送ることができたように思われ、感謝せずにはいられなかった。
 (今にして思えば、これが「ぼくの通夜」だったのかも知れない。)
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 「1」 の末尾にはこう宿題を記していた。
 「これは僕の通夜だ」も考えてみれば不思議な詩句だ。普通は決してこうは言わないだろう。が、今回はここまで。
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 立原道造が、この徹底した片想い・片恋の詩を書くに当たり、実在の誰かがいたとは文献には記されていない。
 そういう意味では「Ⅳ また落葉林で」の切実さとはずいぶん違うだろう。
 だが、相手に自分の想いすら全く気付かれないままで思い続け、そしてその(仮想の)「美しきひと」の死に対して、自分の想いをじゅんじゅんと語り捧げ、そうして明日にはその想いをも葬るべく、ひとりで「通夜」を営む心の言葉をうたう。
 通夜の対象は「美しきひと」であり、またその人に対する自分の想いでもあったのではないか。
 そして、その最後の捧げ歌が《林檎みどりに・・・・・》だったのだと思った。
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 我々は多田さんの「眠りの誘ひ」を通じて、道造の林檎と出会ってきている。それは次のような詩句においてだった。
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  するとおまへらは 林檎の白い花が咲き
  ちひさい緑の実を結び それが快い速さで赤く熟れるのを
  短い間に 眠りながら 見たりするであらう
   (「眠りの誘ひ」第四連)
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 ここでうたわれる「おまへら」は、「おやすみ やさしい顔した娘たち」と
 冒頭で呼びかける娘たちである。
 この三行にうたわれた林檎の花や実は、何とも言えない幸福感で満たされた心の象徴として登場している。
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 今回我々がうたう「みまかれる美しきひとに」にも、リンゴの花と実は登場する。
 だがそれらは「眠りの誘い」とは全く異なる孤独な感情に満たされているようだ。
 それでもなお、道造が《林檎みどりに結ぶ・・・・》とうたうとき、そこには或るこころの昇華を感じないではいられない。
 そうして、多田さんはその詩句を、これしかないという歌に結晶されたのだと思う。
 改めて多田さんに感謝しながら歌うことになるだろうとも・・・。
        (二〇二〇年十月二十三日)
補遺
 ところで、これは余談になるが、道造がりんごの実るのをその目で見たのは、これらの詩を書いた後のこと、東北は盛岡でのことだった。
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 裏の山あたりは果樹園があるので 林檎や葡萄がたくさん実ってゐて
 それらの果実が枝についてゐるのを見るのがはじめての僕にはたのしい
     (一九三八年九月二十六日 盛岡にて 水戸部アサイ宛)
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 シュトルムの短編集「林檎みのる頃」を翻訳出版(1936年・23歳)するなど、林檎への関心が高く、ましてあれこれの詩のなかに様々な象徴として描いていた道造は、早くから実物を見知っていたであろうと思い込んでいた林などは、この手紙を読んだときあっけにとられ、目を何度かこすって読み確かめたのだった。詩人の想像・創造力おそるべし。
.
 このように林檎の花・実を結ぶことをある種の憧憬とともに詩に描き続けた道造が、この「みまかれる美しきひとに」では林檎の樹そのものへと思いを致している。
 その根方に、その人のおもかげと自らの想いを埋める場所として。
 そんな詩人が、その人生の終わり近くに(と言ってもまだ二四歳!)
 アサイ嬢への愛を確かなものにすべく出発した旅先の盛岡で、赤く色づきつつある林檎の実をその目で初めてみることができたことに「よかったなあ」と声をかけたくなる。
 埋められた「おもかげ」と「想い」は、やがて根から樹へと取り込まれ、
 再び香りに満ちた白く美しい花を咲かせ、小さい緑の実を結び、そうして大きく赤く熟れていくだろう。
 そんな永遠ともいえる循環へと至る手前の、いつかは誰にでも訪れる切実な別離の時間をこの一篇の詩は描き、多田さんは曲にされた。歌い終えた後に残る響きとしみじみとした余韻を想い描きつつ、この一文を終えたい。
          (十月二十五日)