演奏解説

4.雨

5.補遺1

6.補遺2

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4.雨

. 増田さんも紹介されていた「琴はしずかに」を読んでいたら、次の一目に止まった。(89頁)

「八木は無教会の信仰で、教会へ行くことはしなかった。若い頃教会へ行ったことはあるようだが、結婚してからは一度も行かなかった。

. 「雨」の詩人 八木重吉が無教会のキリスト者と知った途端、脳裏に浮かぶ光景があった。もう30年ほども前になろうか、NHKTVで寮に住む高校生たちが夜、敷地内に住む90歳をこえる婦人のもとを訪ね、親しく話を交わす場面が映されていた。その穏やかに相槌を打ちながら若者たちの話を聞いている老婦人は「梅子先生」と呼ばれていたと記憶するが定かではない。時が過ぎてそこを去る時、男子生徒たちがやおら歌いだしたのが「雨」だったのだ。梅子先生はこの歌をことのほか愛されていたという。
. その高校は「基督教独立学園高等学校」という全寮制の学校だった。
山形県西置賜郡小国町叶水という飯豊連峰の北麓の村にそれはある。
そこは林の弟が新採の中学教師として赴任した地で、その高校の名も弟から聞き知っていた。一学年25名という小さい規模で独自の教育を行なって今日に至る。
. 創設者は鈴木弼美(すけよし)といい、内村鑑三の弟子にあたり、内村に薦められて1934年この地に学校を設立した。

. 内村鑑三といえば無教会主義のキリスト者として知られるが、鈴木もその一人であり、「学校としての信仰的立場はどのキリスト教の会派にも属さず、通常一日二回、朝と夕方に礼拝が行われているが、無教会の慣行として牧師や神父は存在しない」とのこと。
. 注目すべきは、その教育課程芸術において音楽が三年間必須科目とされ、特にコーラスは学校側でも力を入れているが、コンクールなどへの出場は一切行なわず、学校行事や地域のイベントなどで、その都度コーラスを披露しているという。
. その生徒たちが、多田武彦さんの作曲された「雨」を愛唱していたことを、今更に縁の深いことと思い返される。そこにはキリスト者としての八木重吉の詩に結ばれた縁も含まれるだろう。
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..だが、八木重吉は始めから無教会主義だったわけではないようだ。「神奈川県師範学校在学時より教会に通いだすようになり、1919年(大正8年)には駒込基督会において富永徳磨牧師から洗礼を受けた。」(21歳頃)とウィキペディアには記されている。
「重吉は妻とみと二人の子を残して死んだ。夫重吉を亡くしたとき、とみはまだ二十二歳の若さであった。子どもは二人いたが、いずれも短命で、長女桃子は十五歳で、長男陽二は十六歳で、それぞれ父と同じ病で亡くなった。」
増田さんは、肺結核で亡くなった父子と残された妻のことを簡潔にこう記されている。が、この一文は林にとって殆ど自分に重なることとして重く深く響いた。
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. 林の生みの父Mもまた肺結核で亡くなっている。6歳になったばかりの娘とまだ3歳の林とを残し33歳の若さで。その時母は28歳だった。
. 後に養父となる八歳年下の弟Aは、作家藤沢周平こと小菅留治の山形師範の二年後輩にあたり、剣道・バスケットボールをよくするスポーツマンだった。
. 卒業後新制中学教師になって二年目にして肺結核にかかり、宮城県の山元町(震災後アルマメンバー数人と二度訪れた)にある旧陸軍病院で手術を受け、やはり教職を失うことになる。
. 彼らの長兄は中国で戦死、父(銀行の支店長・林の祖父)は病死、一人の女姉妹も二〇の若さで病死していた。
林の家には死の影が濃く落ちていた。母は一家を支えるため仕事で忙しく、次々と肉親を失った祖母は、病弱な林を無条件に慈しんでくれた。
. 林に亡父の記憶はない。ただ二階へ這い登ろうとしたとき「行ってはだめだ!」と止められたことを姉は記憶しているという。
. その林も小学校一年の一学期、肺結核と診断された。祖母や母の衝撃の深さがどれほどのものだったかと思わずにいられない。
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. だが幸いにも林は生き延び、小学五年時にやっと遊泳が許可され、最上川で泳ぐことになる。姉はごく健康に育ち今日にいたる。そこだけが八木一家と異なる。
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. 「雨」の、このこころに沁み入るソロをさせていただく機会が、これまで何度もあった。その度、何てありがたいことかと思わずにいられなかった。
. だが、録音を後で聴くと「世のために」の音程が低いことがよくあった。「ミ」から「ファ」に上がりきらないと言うことだろうが、自分にとって下がる理由はそれだけではないものを感じていた。
. 今の「この世」をどう感じているか、フクシマ・沖縄の声を聞かず、戦時体制へと次々手を打つことに執心してやまない政権下にあって、もどかしく暗い思いを抱いている己の心の在りようが映し出されているように思われたのだった。八木は若くしてこのように詠っている。

. あのおとのように そっと世のために
. はたらいていよう。

――この詩は重吉の生前に世に出ることがなく、その死後に遺稿の中から発見され、没後三十二年経ってから刊行された「定本八木重吉詩集」に収められている。
と増田さんの解説文には記されている。「琴はしずかに」の中に、その思いを辿ろうとし、次のような詩句に出会った。

.. みずからをすてて
.. まず人につくすという
.. そのひとつをのぞいたなら
.. 切切の詩をつくってゆく
.. それよりほかになすべきわざをしらない

八木はまた「明日」という長い詩のなかで一家四人の日常とその日々への思いを次のように記している。(109頁~)

.. まず明日も眼を醒まそう
.. 誰がさきにめをさましても
.. ほかの者を皆起すのだ
.. 眼がハッキリとさめて気持もたしかになったら
.. いままで寝ていたところはとり乱しているから
.. この三畳の間へ親子四人あつまろう
.. 富子お前は陽二を抱いてそこにおすわり
.. 桃ちゃんは私のお膝へおててをついて
.. いつものようにお顔をつっぷすがいいよ
.. そこで私は聖書をとり
.. 馬太伝六章の主の祈りをよみますから
.. みんないっしょに祈る心になろう
.. この朝のつとめを
.. どうぞたのしい真剣なつとめとして続かせたい
.. さあお前は朝飯のしたくにおとりかかり
.. 私は二人を子守りしているから
.. お互いに心をうち込んでその務を果そう
.. (中略)
.. 生徒たちはつまり「隣人」である
.. それゆえに私の心は
.. 生徒たちにむかっているとき
.. 大きな修練を経ているのだ
.. 何よりも一人一人の少年を
.. 基督其の人の化身とおもわねばならぬ
.. 同僚も皆彼の化身とおもわねばならぬ
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. そうして八木は、「絶えずあらゆるものに額ずいていよう」と記し、次の詩句でこの長い詩をとじる。
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.. ほんとうに
.. 自分の心に
.. いつも大きな花をもっていたいものだ
.. その花は他人を憎まなければ蝕まれはしない
.. 他人を憎めば自ずとそこだけ腐れてゆく
.. この花を抱いて皆ねむりにつこう

. 林は生みの父との日常を知らない。八木とは違い病によって子からは隔てられて過ごす日々だったのだろう。
. まして郊外の結核療養所に移されてからは。どんな思いを抱いて妻子を残し旅立っていったのかも知らない。だが後年、次のようなことを知り得た。
. 東京に出て働きながら大学の夜間部に通うも病を得て帰郷。小康を得て戦中、左沢町役場に就職。元気に働き、戦後間もなく結婚する。
余談になるが、最近実に驚いたことがある。
. そのころ疎開も兼ねて、この左沢小漆川の農家・後藤岩太郎さん(最上川舟唄を作った一人で歌い手だった)の広い屋敷に、一家で移り住んでいたとアルマのIさんから伺うことがあった。
. 最上川舟唄談義が交わされていた時のことである。今の父Aに聞くと、その頃小学校の雨天体操場および運動場地下に印刷工場をつくる計画が進められていたとのこと。
. 精密機械関係の仕事に携わるIさんの父もそれの関係でこの地に来られたのかも知れず、亡父Mとも接触があったかもしれない。殆ど呆然とする思いでこの不思議な縁に思いを巡らせることになった。
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..さて、戦後Mは農地解放(改革)に伴う仕事に東奔西走し、折から設立が決まった新制中学校の敷地買収も担うことになる。
最上川畔のその二万坪におよぶ広大な敷地には木造校舎だけでなく一周300mの公認陸上競技場・野球場兼サッカー場・その他の運動場が三段にわたってつくられ、体育の授業や運動会、郡の各種競技会で賑わうことになる。林もまだ何も知らぬままそこで学んだ。
. 後年、統廃合でその中学校は廃校になり、近隣から通いやすい地に移された。その後荒廃しかけた跡地に、やがて高温高濃度の温泉が掘り当てられた。月山・葉山などを遠望できるこの地は、町民はもとより近隣からの客で賑わうことになった。
..帰郷時そこへ通う度に林は、亡父の為したことが今もこうして人々の心身を癒す場として生きていることを感じ、その懐に抱かれるような思いになる。
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. つい長々と私事に立ち入ってしまったが、戦中戦後を生き抜いてこられたアルマの皆さんにも、それぞれにご自身および家族の歴史があり、この「雨」についても林同様、さまざまに交錯する思いをもっておられるのではないだろうか。
. また、それは全国の人々に広がるだろう。たった五行の詩がこんなにも深く広くたくさんの人々のこころに住み続けるのは、多田武彦さんの作曲によって、こころに沁み入る「歌の言葉」としての生命を吹き込まれたからに相違ない。
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.「もどかしく暗い思いを抱いている己の心の在りよう」と先に記したが、この「雨」はそんな個人的なちっぽけな思いを超えた歌であるだろう。上床さんから送られた或る日の練習録画から聴こえてくるソロの至らなさに恥じ入りながら、「己の心の在りよう」を意識せざるを得なかった。
確かに今の世界、日本の「世」を見た時、決して明るい気持ちにはなれない。それらの事象に影響され、「世のために」と歌う時そこに悲観的な重いものがすべり込んでいたのではなかったかと自問していた。
.そんな時、広島での被爆者サーロ―節子さんがノーベル平和賞の授賞式で話された言葉が心に飛び込んできたのだった。
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.「私が愛した街は一発の爆弾で完全に破壊された。住民の殆どは一般市民で、焼かれて灰と化し、蒸発し、黒焦げの炭になった。(中略)
世界のすべての国の大統領、首相に対し、条約に参加し、核による絶滅の脅威を永遠に除去するよう懇願する。私は13歳の少女だった時、くすぶる瓦礫に埋もれながら、光に向かって動き続けた。そして生き残った。今、私たちの光は核兵器禁止条約だ。」
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. その言葉に貫かれるようにして思い至った。例えば自らは布団から這い出すこともできない脊椎カリエスの病床にあってなお精神の強さとユーモアすら失わなかった正岡子規のこと等々・・・。そして自分の置かれた状況が、たとえどんなに辛く厳しいものであろうと、明るさ・光を求めることを諦めなかった、また諦めずに「いま」を生きている人々に、この世が支えられていることに今更ながら気付くことになった。
..八木重吉を支えていたのは信仰と、家族への愛だったかも知れない。
..あのおとのようにそっと 世のために はたらいていよう」は、けれど普遍的な言葉として心にひびく。
..この「雨」が多田さんの曲によって全国で、世代を越えて歌い継がれてきたのは、信仰の有無やその如何を超えた祈りの光によってだと思わずにいられない。曲はイ長調の主和音「ドミソ」で始まり「ドソドミ」で終わる。雨があがるように、祈りが光となって昇華していくのだ。
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. サーロー節子さんの言葉によって、ちっぽけな自分の心を覆っていた重しが貫かれ、やっと状況に影響された個人的な思いを突き抜けることができたように思う。そして12月13日、練習最後のソロが変わった。
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..増田さんは「多田武彦 男声合唱組曲『雨』をめぐって」の「はじめに」の中で、多田さんの次の言葉を引いてられる。
―(「雨」)の詩と曲は、今後私がつらいことにぶっつかった時にも私をなぐさめ、「そっと世のためにはたらく」ことを私にささやくことであろうし、私が死ぬ瞬間にも、私がしずかに死んでゆける鎮魂曲となることであろうー

. 多田さんは昨年12月12日、ほんとうにこの歌のようにこの世を去って行かれた。つい一ヶ月前のことだ。
だが作曲された歌の数々は残り、歌われる度に多田さんはよみがえられることだろう。
. 「アルマの諸君、いい歌をありがとう」多田さんのそんな声が聞こえてくるような演奏をしたいと願う。
.                                                                                                      2018年1月12日

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5.補遺1

. この随想3で、朱欒かと思い写真を撮りに行ったら鬼柚子だったと記し、皆さんにお送りしたその日の練習時、T2の奥さんから「朱欒なら家の畑になってるで。写真撮って持ってくるわ」と声をかけられました。そして年が明けて十日の練習日にいただいたのが左の写真。曇りの日を選んで撮られたとのこと。うれしくなります。

………

「冬、ほのぐらい雨の日は 朱欒が輝く」で始まり「そうして、わたしはただ見る、ほのぐらい雨の影の中に ぽっかり朱欒の浮かぶのを 輝くのを」で終わるこの詩を、多田さんはリフレインして冒頭の句で歌い終わるように作曲されている。

. 「冬、ほのぐらい雨の日」は、自然の情景を描きながら、二連の九行により詩人大木惇夫の心の情景を象徴しつつ時代の冬へと連想を誘い、更にはそれぞれにとっての「ほの暗い心」へと目を向けさせる。そのほの暗さの中に輝く朱欒は、視覚的にも見る者の心をほっとさせずにおかないだろう。
. この詩、そしてこの歌において、その黄色は希望の象徴としての光をまとって輝いている。多田さんが「輝くー」をハ長調の主和音ドソドミで歌うようにされたのは、その色・光が空間に、そしてそこにいる人々の心に鳴り響くようにというつよい意思によってだろう。

. さて、これまで触れてこなかった二曲について、またまたとりとめない随想を記して終えたいと思う。

. 第一曲「雨の来る前」を初めて聴いたのは1964年、高校一年の時だった。入った合唱部(指揮・阿部昌司)で折りにふれ先輩たちがやおら歌い出すのだった。
「ざあっとやってこいよー」もうこれだけで「うわーっ、かっこいいなあ」と憧れた。が、自分が歌う機会はやってこなかった。
. 毎朝煙を吐く機関車で小一時間、歩いて二〇分という通学だったが、トンネルを二つ過ぎると鼻の穴がススで黒くなるのだった。そのうちよく咳をするようになった。
. それを「4」で触れた祖母が部活で帰りが遅くなるせいだと心配し、養父に懇願して高校に赴かせ、二学期終了後不本意にも退部させられることになった。(ちなみにその合唱部は1961年「大屋根」でNHKコンクール優勝、六二年「最上川舟唄」で第二位。そのソリストT氏は伝説上の人として語られていた)

.  在籍中は男声で「柳河」これも多田さんの「北国」を愛唱し、他に「ロシア民謡」混声で「旅」「聖史曲」などを歌った。

.  その後林は美術部に移り油絵を描くが、合唱への憧れは消えず大学で合唱団に入ることになる。
そこで混声指揮者としての上床さんと出会い「ミサ・ブレヴィス」を通じてコダーイと出会うことになる。

.だが、折からの大学紛争の時期、「雨」がレパにえらばれることはなかった。(次回に続く)

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6.補遺2

.   憧れの京都にやってきたものの言葉が通じにくく、1970年二浪の末やっと入った大学は紛争のため5月下旬まで授業がなかった。

. 下宿で下宿で大江健三郎の作品を読みふけり、ぼうっとした頭で渡った東一条の横断歩道で、市電の陰から走り出してきた車に跳ね飛ばされた。途中で信号が変わっていたのだ。幸い大怪我にならずに済んだが、これでは駄目だとヨット部に入りランニングの日々を送る。

が、それだけでは飽き足りず、六月、合唱団のボックスを訪れた。男女合わせて200人ほどにもなる大所帯。その熱気はすごかった。

.  折しも七〇年安保。学部内でも合唱団でも安保をめぐっての学習や討論が交わされていた。それは合唱団のレパの選曲にも反映されていたのだろう。
混声では前回触れたようにコダーイの「ミサ・ブレヴィス」、男声では三木稔の「阿波」清瀬保二の「球根」「蛇祭り行進」、グリーグ(あの「子供の歌」ではネコのソロを!)など。(なお当時のパートリーダーはNさん、二年先輩にTさんがいて、40数年後の今こうして一緒に歌っている嬉しさ!)
.  翌年、混声は間宮芳生の「コンポジションⅠ」を上床さんの指揮で。男声は「コンポジションⅥ」やコダーイ「カラドの歌」「奇蹟」、「ロシア民謡」などがレパになった。自分も属することになったリーダー会議では色々歌い込んだ上でレパの提案をし、決まってからも歌い深めることを重ねた。

.  選曲をめぐって「今、何を」と、とことん論議を重ね、決まった後もいろいろ調べ、歌い重ねて練習に生かした経験は、四回生の夏「音楽教育の会・全国大会」に初めて参加し、とりわけ小学生たちの歌声に魅せられて、教科書に縛られず目の前の子たちと育ち合える歌を選び、ピアノを練習し共に歌う実践をやがて自ら志すことにつながる。
. そして保育園から高校に至る全国の教師はもとより、林光さんともその後37年にわたり、語り尽くせないほどの交流に恵まれることになる。
. さて前置きが長くなったが、当時の一回生数人で語らい自主的に歌い始めていたのが組曲「雨」だったのだ。

. まずは「武蔵野の雨」の叙情を歌い味わっていた。すると或る日、切れ者の先輩がやって来て、チラリとこちらを見ながら「『雨』止めや」と声をかけてきた。
民主的であろうという信条からはあからさまに干渉はできない、かといって見て見ぬふりもできない。そんな困惑も同時に伝わってきたように感じられた。
. 社会性と叙情性。学生時代は、ともすれば前者に重きを置き、後者を排する傾向が強かったように思い返す。
アルマで「雪と花火」をレパとして歌っていた或る時、上床さんが「学生時代にやりたかったが、できる雰囲気ではなかった」と話されたのもそのことを思い出させた。
だがそうは言っても、選曲において音楽的にどうなのかという視点は決しておろそかにすることはなかったと記憶する。
「雨」その後もしばらく歌い続けたが、やがて途絶えた。いろんな活動が立て込んできて(幾つもの団内小サはークルがあり、色んな歌がうたわれてもいた)ということだったろう。
. こうして結局「雨の来る前」を歌うことはなかった。それだけに今回やっとこうして歌えること、皆さんと共に歌いながら、この曲の世界に分け入り、音楽として立ち上がってくる過程を味わえていることが嬉しくてならない。
. また当時第四曲は「十一月にふる雨」だったが、それは歌った。が、部落差別に関する当時の言葉狩り的弾劾にこの歌も対象とされたのだろうか、やがてそれは「雨 雨」に差し替えられた。
. だが、多田さんはただ仕方なく変えたのではないと感じている。歌うごとに実に様々な要素を組み込んで緻密に構成されていることを知らされるのだ。また、この曲が在ることによって組曲全体がピリッと締まり、音楽的にも変化に富んだものになっている。
. 多田さんのしなやかなかな靭さを宿すことになったこの組曲の魅力が、我々のアンサンブルによっていずみホールの空間に鳴り響くことを願って、この一連の随想を閉じたい。
.                         2018年1月31日

 

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